わからないこと・考
ないことを証明することは難しい。
幽霊も、UFOも、河童もネッシーも。怪しい写真や映像の一つひとつを科学的に否定することはできるかもしれないが、存在しないことを証明することはできない。
ところで、「わからない」という状態について考えている。
たとえばうどんのコシは麺の弾力のことらしいけれど、わたしはよくわからない。食べれども食べれども、うどんのコシの有無も、コシのあるうどんのうまさも一向にわからない。
うどんは好きだ。勉強不足か、好きの熱量が足りないのか、味覚がオカシイのか、食への関心の低さのせいか。いずれも心当たりがないこともなくて、うどんに対して申し訳ない気持ちが湧いてくる。でも、わからないものはわからない。
たとえば最近わたしはどうも「HSP寄りの人」であるらしいと認識するに至ったのだけれど、HSPの特徴である「傷つきやすい」とか「敏感だ」というものが、HSPでない人たちからすると「甘えだ」という批判の対象になることがあるらしい。それはHSPの体で世界を見たときの感覚が、本質的にわからないということなんじゃないかと思う。「HSPの体で世界を見たときの感覚」というのは一つの主観であって、HSPの体を持たない人には体験できない感覚なのだから、それはわからなくて当然だともいえる。同様に、HSPの体を持つ人には、それを持たない体から世界を見たときの感覚がわからない。
たとえばわたしは生理2日目に市販の鎮痛剤の用量用法をギリギリ守って痛みに耐えていて、生理痛は軽い方だと認識している。日常生活に大きく支障をきたすレベルでもっと重くてしんどい思いをしている人がいるのだろうと想像するけれど、彼女たちの実際の痛みはわからない。痛みを伴わない人たちもいるらしく、その感覚は尚のことわからない。
ちなみに、数年前から生理中に特定の「変な匂い(ケミカル)」がしていていつも不快なのだけれど、その匂いの正体もメカニズムもよくわからない(ナプキンの化学繊維の匂いなのかもと疑っている)。
他者と感覚を共有できていない状態が「わからない」ということだとしたら。
生理を経験した人間の数だけ生理の痛みがあって、お互いにその痛みが本質的には「わからない」。自分の痛みはわかるけれど、全員が他人の痛みは「わからない」。
HSPじゃない人たちは、HSPの体で世界を見たときの感覚が「わからない」。HSPの気質を持つ人は、5人に1人の割合で存在するといわれているらしい。単純に捉えるならば、5人のうち4人は「わからな」くて、1人だけがわかっている。
うどんのコシという感覚は世間一般では共有されているものと思われるので、わたしを含むごく少数の人口だけが「わからない」。
わからないことは、わかっている集団が明確に存在するときに疎外感を伴う。みんなはうどんのコシがわかるのに、わたしだけわからない。
だけど、みんなが互いにわからないことは気にならない。他人の生理痛など知る由もないからである。
HSPはどうだろうか。HSPの体を持つ集団自体が少数派だから、わからなくても困らないのが実際のところだろう。むしろ、「わかってもらえない」ことが疎外感を生じさせる。
では、わからないという状態は是正すべき対象だろうか。
多様性を認め合えるコミュニティは誰かを疎外しない。コミュニティで生きる人類にとって、それは常に追求すべき理想だと思う。わかりあう努力を願わずにはいられない。
しかし一方で、わからないという状態そのものはきっと、悪じゃないのだ。
わからないという感覚もまた、ほかのあらゆる感覚と同等に大切にされるべきわたしたちの感覚なのだと思う。「わからない」のだからわからしめなければとつい思ってしまうけれど、それは違うような気がするのだ。
わかることが偉いのではない。
わかる・わからないは一人ひとりの主観に基づく。生理痛と同じで、本質的には誰も他者の感覚なんてわからない。わかろうとすることは尊いことだけれど、わかったふりはしなくていい。わからない自分の感覚も大事にしてあげたい。
日本人であっても、うどんのコシがわからない人がいる。もしかするとコシを感知する機能を持たずに生まれた人間なのかもしれない。そうだとしたら、コシがわからないことを責められたり、コシの理解を強要される筋合いはないだろう。
結局、わかることは当たり前ではないのだ。わたしたちは感覚というものをまるごと100%共有することができない。むしろ、わからない方が当たり前と思った方がよさそうだ。
わかりあおうと努力をしながら、わからないことを受け入れる。
互いを尊び重んじることの本質はそこにあるのかもしれない。
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