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「アートが分からない」を終わらせたい!
先日YouTubeのRehacQ(リハック)という番組で斎藤幸平さんが村上隆さんと話をしていて
「アートがわからない」
「アートはどう見たらいい?」
という話がありました。
私もわからなかったから“分からないがよく分かる”のですが、、、
でも私は、
「アート分からない問題」を
そろそろ終わらせたい!
と思うのです。そして、“アート”を考えた結果、村上隆さんがどういう存在であるか?についても整理してみたいのです。
ということで、
まずは「アート分からない問題」から。
アートは2種類
「アートが分からない」と言う時、そもそも“アート”という言葉が曖昧だから、“アート”の意味を明確にする必要がある!というのは最初に指摘されやすそうなポイントです。
そこで“アート”が示すものを明確にしたいのですが、、、
重要なのは、
アートには2つ意味がある!
と言うこと。
2つの意味があるからこそ、話す人によってその前提とする意味が違っていて上手く話が噛み合わない、と言うのが割と大きなハードルになっていると思うのです。
ではその2つの意味とは何か?
それは、、、
トラディショナルなアート
と
パーソナルなアート
です。
この2つをひとつずつ整理してみます。
まず、、、
トラディショナルなアートとは?
アートにもマーケットがあります。
超大金持ちのコレクターがいて、オークションやギャラリーで一枚の絵が数千万とか数億円とかで取り引きされるような、アートマーケットです。
で、実はこれは資本主義をベースにしたもののように受け取られ比較的新しいものとして認識されるのですが、これは“貴族的な世界”であってクラシカルな世界なのです。超大金持ちがパトロンとなって作品を購入したり、アーティストに依頼することによって新たな作品が生まれたりするという構造は変わっていない。ダヴィンチ、ミケランジェロの壁画は貴族との関係の中で多額のお金と関わりながら歴史に残っているわけですから。ただ、テーマが宗教をベースにした宗教画や彫刻、教会(建築)ではなくなっているということだけなのです。
では宗教ではなく何がテーマになっているのか?というと
“アートそれ自体”です。
宗教から離れた芸術は、「宗教を表現するものではない芸術とは?芸術とはそもそもなんなのか?」と言う問いに向かわざるおえなくなり、“芸術を問う芸術”がテーマとなったのです。代表するのがデュシャンやウォーホルの流れ。便器を用いたり、日用品や印刷を用いながら「芸術とは何か?」という問いが重要だった。そしてそこでは“美しさ”だけが問題ではないわけです。日本では「アートは美しいものでなければならない」とか「美しいものがアートだ」という部分が強いように思いますが、美しさを問うのがアートではなく、アートとは何かを問うのがアートなのです。“美しさ”はアートとは何か?という問いの中の“一要素”なのだというとわかりやすいかもしれません。
まとめると、
1つ目のアートの意味
トラディショナルなアートは、、、
①お金と離れがたく結びつく世界である
②アートそのものがテーマである
③“美しさ”が重要なポイントではない
ということです。
これらのことからわかるのは、、、
“アート”自体がテーマになっているため、
アートの歴史を知らなくては観賞そのものが出来ないということであり、同時に“アートがハイコンテクストな世界”であるという部分なのです。だからコンセプチュアルなものも沢山あるし、同時にアートは貴族世界で多額のお金が動くのも伝統的なものでありスタンダードなことなのだということなのです。
では2つ目のアート、
パーソナルなアートについて、、、
パーソナルなアートとは?
先程の“アートを問うアート”のトラディショナルアートの中で、1つの大きな流れが生まれました。
それが、
“個人の視点から世界を表現する”という流れです。
絵画で考えると、、、
宗教の世界を描いていた伝統的な絵画から、段々現実のセレモニーを描いたり、戦争の一場面など“現実を描いた絵画”が生まれてきます。そして、現実を見ている“私”に注目するようになってきます。
流れは、こんな感じ、、、
宗教的世界を描く(非現実)
→
実際に起こった出来事を描く(現実)
→
それを目撃する“私”が見た世界を描く
そうした“私”が見た絵ということを考えた時、屋外で絵を描いた印象派がわかりやすい。印象派は光学的な視点も大きいですが、屋外にキャンバスを持ち出して“私が見ている風景を描いた”というのも大きなポイントです。静物画などは、そのものの“存在”を描く存在論みたいな側面がある一方、風景や光は常に移ろい変化してゆくものなので画家の視点というまなざし自体が重要になってくる。それによって、風景や光を見ている“私”の存在が浮き上がってくるというイメージなのです。
そこから、さらに見ている現実を“私が解釈する”という視点も生まれます。わかりやすいのがゴッホです。
ゴッホの絵を見て、“空想”の場面を描いているとは言えません。実際にある建物、部屋、ひまわりという“現実”を描いています。でもそれを見えるままに描いているとは言えません。形は歪んでいるし、色味も違います。
ここで生まれたものは
“アーティストにはこう見える”という考え方です。そしてそこにはアーティストの美学が含まれていると考えられたわけです。
「アーティストという特別な感性を持った個人が、独自の“美”を追求して描いたものなのである!」と解釈されたということ。
ここで、
特別な感性を持ち、自らの“美”を追求している存在=アーティスト
というイメージが作られました。
さらに合わせて言うと、、、
ピカソ以前のセザンヌやゴッホの絵画に注目がいけばいくほど、貧乏でも描き続けたという“清貧”のイメージも付与されてしまったのです。
まとめてみると、、、
2つ目のアートである、
パーソナルなアートとは、、、
①私の視点、個の視点
②唯一無二の感性をもつ“美”を追求するアーティスト
③お金とは関係がない清貧である存在
ということです。
ではここでまとめてみます。
まとめ
◯トラディショナルアート
Traditional art 略して “TA” とします
①お金と離れがたく結びつく世界である
②アートそのものがテーマである
③“美しさ”が重要なポイントではない
◯パーソナルアート
personal art 略して “PA” とします
①私の視点、個の視点がテーマ
②唯一無二の感性をもつ特別なアーティスト
③お金とは関係がない清貧である存在
と言う中で
◯お金の視点は
TA=お金と関わる超高級
PA=お金と関わらない清貧
という真逆の意味になります。
また、
◯テーマの視点では
TA=アートそのもの、またはその歴史
PA=作者個人の物語や見え方
というアートの歴史を含む広い世界と、個人的な見え方や考え方というある意味狭い世界をテーマとしていて、大きなギャップがあります。
最後に
◯“美しさ”については
TA=美しさは1つの要素
PA=美しさが重要
というこれまた反対の立場になっている。
つまり、
TAとPAは全く逆の立場でありながらも、同じ“アート”という言葉の中で語られているのです。個人個人が“アート”という単語1つでこれらをごちゃ混ぜにして使っていることが“アート分からない問題”を引き起こしているのだと思うのです。
だってアートの話をしてると、全く逆のことを言っている人がいて、どっちが正しいのか分からなくなるのは当然ですよね。
だからこそ大切なのは、まず“アート”には2つの意味があるということを理解した上で、どちらも“アート”の世界なんだという前提に立つこと。そしてそこから、「あなたが分からないと言っているところはどこですか?」と丁寧に深掘っていくことが重要だと思うのです。
村上隆さんの存在とは?
で最後に冒頭のリハックに戻るのですが、村上隆さんはトラディショナルなアートの歴史の中に漫画を繋げようと活動されている方なのです。村上隆さんは「漫画は未来において必ずアートと呼ばれるものだ」と語っていらっしゃいましたが、“アートを問う”というコンテクストの中で、「漫画はアートである!」と、“自らの信じるアート=漫画”を西洋文化のトラディショナルな流れに接続しようとされている。そもそも日本は西洋中心のトラディショナルアートの中では浮世絵が印象派に影響を与えたくらいの存在です。だからこそ、浮世絵が持つ平面性を日本の空間認識の特徴の1つとして、現代のサブカル文化と接続させスーパーフラットというアイデアを用い、トラディショナルアートに接続しようとされている。実際にそこに成功されているのだと思います。でも、それを日本人が中心的に持っているパーソナルアートの視点から見ると、「お金に魂を売り、美しいとは言えない日本で当たり前のオタク絵みたいなものを描いて、しかもスタッフを雇って“自分自身で描いていない”そんなものがアートなわけがない!」と語ってしまうのです。
でも、トラディショナルアートの流れを知っていれば、アートとは何か?という問いの中で、オタク絵や漫画はアートだ!と自らの信念を世界に問い続けている稀有な存在なのだと思うのです。もちろん村上隆さんの絵を好きか嫌いかは個人で様々でしょう。でも、私達が日常的に楽しんでいる漫画をトラディショナルアートに繋げようとしてくれている存在なのだということは忘れてはいけないと思うのです。当時の浮世絵が大衆文化で当たり前のものだったように、現代の大衆文化で当たり前の漫画が未来に“アート”だと呼ばれるようになったら、そこには村上隆さんの存在があるのではないでしょうか?