母の日のカーネーションからの・・・
カーネーションは、大学生の頃に花屋でアルバイトをしていた時の思い出深い花なのです。
その理由は、やっぱり母の日。
母の日になると花屋はカーネーションでいっぱいになって、沢山の人が買いに来ます。その中に「小学生の低学年かな?」というくらいの子がお金を握りしめて、「これ下さい!」とカーネーションを一輪買いに来たのです。
こちらは沢山のお客さんの対応をしているので、わちゃわちゃとしていますが、その子が何故この花を買いに来たのかは明らか。
そこで、
一輪のカーネーションの裾に水で濡らしたキッチンペーパーを当ててビニール袋で包み、その上からアルミホイルでクシャっと覆ったら、透明セロファンで包む。最後に細いリボンをくくり付け、ハサミを当ててシュラッ!と滑らせ、クルンとさせたら出来上がり。とてもシンプルな無料のラッピング。
お金を受け取り、その子にお花を渡して、その場は終わり。
特別そうだけど、なんてことはない、母の日の花屋なら平常運転な出来事です。
私の記憶も、沢山の子供とそんなやり取りをしたような気もするし、意外に少なかったのか?もしかしたらその一回だけだったのか?ということも思い出せないくらいです。
でも、
「そんなことがあったなー」というのが、
ずっと残っている。
別にこの体験を通して「子供がお母さんにお花をあげるのが素敵だなー」といったことを言いたいわけではないのです。
もしかしたら、その子供は母の日というものを知って、「カーネーションを贈るものなのか!」と、とりあえず買いに来ただけなのかもしれないわけですし。
それと、母の日が花屋のマーケティングの一つであるという冷静な見方も事実だと思います。
アンナ・マリア・ジャービスという母の日の創始者と言われる方も、母の日が商業化されていることを嘆いていたというのもあるようですから。
でも私は、こう思いたいのです。
母の日にカーネーションを贈ることで日々の感謝を“形に出来る”と思ったから、その想いを花に託せると思ったから、その子は買いに来たのだ、と。
そして、私がこの体験をなんとなく忘れることが出来ず、ずっと記憶に残っているのは、そのことを垣間見たからなんじゃないか?と思うのです。
その子がカーネーションに託した、
「花は気持ちを形にする。」
「気持ちが花という形になる。」
ということを。
その記憶が残っているからこそ、今こうして木工作家として木の花を作ることにも繋がっていて、一つの原体験のようなものでもあるのです。
だから思い入れのあるカーネーションを木で作りたかった。そしてようやく完成したのが、今回のkikkaのカーネーション。
生花と違って、木の花は残ってしまうので、一度渡してしまうと、次は贈れません。でももし、気持ちが形となって残り、自分の母の日常生活の中で寄り添う花になれば、生花とは違った“気持ちの在り方”になれるんじゃないかな?と思うのです。
それに一度しか贈れないというのは「今まで母の日に何もやってきてなかったのに何を今更!」と自己ツッコミを入れてしまう私のような大人にとっても、案外いいのかもしれないなーと思ったりもしています、、、^^;