第7章第1節 皇太子行啓をめぐる取材合戦
はじめに
明治42年後半から大井冷光は児童文化運動に一気に傾倒していく。立山に夢中になっていたのは1か月あまりのことで、その間も頭の中にはいつもお伽噺があったようだ。つい3か月前、雑誌『少年世界』の巌谷小波と久留島武彦が、北陸最果ての地方都市である富山を訪れ、大勢の子どもを前に楽しい話を聞かせてくれた。あの2人と同じように、子どもにかかわる仕事をやってみたい。それにはまずこの田舎で新聞記者として何をすればいいのか。冷光は自分なりの答えを見つけてそれを行動に移しつつあった。
1か月後に迫った一大行事
北アルプス立山での夏山駐在を終えて、明治42年8月27日午前、大井冷光は富山市に戻った。町のにぎわいを目にするのは35日ぶりである。つい30時間ほど前、大日岳から称名滝へ下山するとき遭難寸前に陥ったのが夢か幻のようだ。富山市総曲輪225番地にある富山日報社では、主筆の匹田鋭吉はじめ社員たちが冷光を出迎えたことだろう。
「おー、ご苦労さん、冷光君、よく無事で戻ってきてくれた。待ってたぞ。日に焼けてたくましくなったな。……ゆっくり休んでくれと言いたいところだが、これからは頭を切り替えて行啓取材だ。もう1か月しかない。面白い雑観を書くのは君しかいない、頼んだぞ」
匹田はこんな感じで話したのではないか。
皇太子の北陸行啓が9月下旬に迫っていた。冷光も知らなかったわけではない。皇太子行啓はずっと前から話題に上っていた。この1年、県当局や市町村は奉迎準備や記念事業に大忙しだった。いよいよその一大行事が行われるのだ。
皇太子(嘉仁親王)の行啓は明治33年から関西・九州・信越・関東・四国・山陰・東北と行われてきた。明治42年秋の北陸行啓は、北海道沖縄を除くと全国行啓の最後だった。この年、皇太子は満30歳、天皇に即位する3年前である。
31年前の明治11年に天皇の北陸行幸があったのだが、その頃はまだ富山県内に新聞と言える新聞がまだない。それと比べて明治42年の富山県内には、主な日刊紙として『富山日報』『北陸タイムス』『北陸政報』『高岡新報』の4紙がしのぎを削っていた。
現在、4紙のうち明治42年当時の原紙が存在するのは『富山日報』と『北陸タイムス』の2紙のみである。そのため4紙の競合を正確に振り返ることはできない。ただ2紙を読むと、8月下旬以降、行啓の日程や場所などをめぐり激しい取材合戦が繰り広げられたことが分かる。
赤痢で無期延期の噂
時は少し遡る。明治42年8月19日、『北陸タイムス』に載った1本の記事が物議を醸した。東京発の電報で「赤痢病のため行啓が無期延期になる恐れがある」という内容だった。
記事の後半に気になる内容が書かれている。各県の知事報告によると、患者数は4県のうち石川県が最も多く富山県は10名内外と少ない。そして石川県当局は類似の病も念のため赤痢病に含めたのに対して、富山県当局は隠蔽した形跡がある、というのだ。
このニュースは最初、在京の一紙が報じたものらしいが、情報は一気に広まった。富山県当局は知事の宇佐美勝夫はじめ大いに慌てたことだろう。
『北陸タイムス』は8月22日に「東京の一新聞が爲したる虚報に過ぎざりし」と延期報道を否定しつつ、その後、27日に「16日までの患者数がのべ13人」、29日に「30日から行啓箇所を消毒」などと関連報道をした。さらに31日には1面で「縣は行啓に對し傳染病の發生を秘して表はす計画凡て批難を怖れてか如上に倣ふ、皆非なり」などとと県当局を批判した。
県当局は赤痢騒ぎに相当神経をとがらせていたようだ。県知事の宇佐美は9月8日ようやく上京し、10日午前、皇太子と面会した。その際、皇太子は「水は飲用するに足るものはあるか」「富山県には赤痢病猛烈なりとの記事新聞に現れ居りたるが、あれは誤聞なりと後に聞きたるが果して然るか」と尋ねた、という。宇佐美は面会後、取材に答えて、赤痢の記事について問われたときが最も畏れかしこまったと語った、と『富山日報』が報じている。[1]
『北陸タイムス』が異例の当局批判
行啓日程は約1か月前になってもなかなか正式に発表されなかった。県当局は8月21日、各市郡に行啓の確定箇所を通知した。それを察知して翌22日の朝刊に「9月26日来県30日退県」と書いたのは『富山日報』だった。他紙は1日遅れとなった。
『北陸タイムス』は『富山日報』の抜け駆けだとみた。編集長の卜部南水(1867-1938、幾太郎)は県内務部長の永井金次郎に抗議し、23日2面で「行啓に對する不親切」と題して異例の県当局批判記事を書いている。
それによると、何日か前に4紙の主筆が知事と懇談したとき、知事は行啓日程を漏らしていた。『富山日報』が日程と視察先を一日先に報じたのは、永井が正式発表の段取りを取らなかったからだ。そもそも県当局は『富山日報』をいつも偏重している。宇佐美は主筆たちと懇談したとき正式発表できたのに隠匿した、それは新聞記者に対する愚弄であり、県民に対する不親切だ、と南水は訴えた。
『富山日報』は8月28日に連載「福井県の奉迎準備」を、『北陸タイムス』は31日にコラム「行啓前記」をスタートさせた。行啓報道がいよいよ熱を帯びてきた。焦点はより正確な行啓日程だった。
『北陸タイムス』は9月1日、独自情報で詳しい行啓日程を書いたが、4日間のうち3日目の日程はなんと空欄だった。どうも魚津の情報が読めなかったらしい。翌2日には『富山日報』がさらに詳細でかなり正しい日程と供奉員60人を報じたが、それでも発着時間には間違いがいくつもあった。
『富山日報』は9月5日、東京発の記事で行啓日程が両3日遅れると報じた。その報道の通り翌6日、県当局は行啓評議員会を開いて、皇太子来県は8月26日から29日頃に繰り下げられると宇佐美知事が説明した。
結局、富山県内の正式な日程を県当局が発表したのは9月10日で、行啓開始の5日前だった。
当時の日刊紙は4ページ建てで、1面が総合面、2面が国内・県内政治面、3面が社会面である。2面には、随行する供奉員や新聞記者に関する情報と、各市町村の準備に関する細かい記事が連日掲載されている。『富山日報』は隣県の準備状況までこと細かに伝えた。歓迎行列に動員する学校ごとの児童数、奉迎唱歌の練習の様子、県民からの献上品の申請締め切り、数千人規模で行う提灯行列の順路と心得、係員や駅員の健康診断の予定……。地域社会全体が行啓一色に染まりつつあった。
下山後にも立山関連記事
大井冷光は明治42年8月27日に立山から下山して、9月下旬の皇太子行啓までどんな記事を書いていたのだろうか。『富山日報』紙面に署名記事は少ないが、分かる範囲で見ていこう。
『富山日報』の社会面は、9月16日まで冷光執筆の連載「天界通信」がトップ記事である。8月26日から「黒部谷より」が3回、29日から「立山温泉より」が2回、そして31日から9月16日まで「大日嶽と稱名瀧」が17回連載されている。これと関連して9月4日~6日には、洋画家吉田博を取り上げた「玉太郎の曲線美」(3回連載)を書いている。
7日3面「稱名瀧の発電所」、8日3面「立山室堂の増築」も、署名はないが冷光の記事であるとみて間違いない。冷光は9月半ばまで立山に関するネタを書いていたのだろう。14日3面の「兒童のはなし會」という無署名記事が注目されるが、これについては後述する。
分刻みの予定を報道
9月15日に皇太子が東京を出発すると、紙面は1面から3面まで行啓記事で埋まるようになった。富山来県まであと2週間である。皇太子一行が通る道筋の情報はもちろん、富山県内の各市町村の準備状況をいっそう細かく伝えている。富山市当局は、行啓の道筋の2丁(約218m)以内の家々に健康診断をするよう呼び掛けた。
『富山日報』主筆の匹田鋭吉は、過熱ぶりを危惧して、9月17日2面の論壇で「常態を失ふ勿れ」と書いた。役所が奉迎準備にかかりきりとなり普通の事務が滞ることがないように、また民間でも営業を中止することがないようにと呼びかけた。27日には「余りに畏懼する勿れ又病的の人となる勿れ」という論説も書いている。
9月17日の各紙には、富山県内の行啓日程が確定したとして、各施設発着時刻が分刻みで各紙に掲載されている。4日間の行啓に合わせて侍従の「御使差遣さけん」が行われたが、この差遣日程も翌日の新聞に掲載されている。
富山県内の献上品は333になった。赤痢騒ぎがあってか皇太子に差し出す御料水も話題に上っている。御料水は富山赤十字病院内の掘り抜き井戸で取水され、その水質分析の結果や、その場所の警護についても記事が出ている。[2]
隣県取材には派遣されず
最初の行啓地岐阜(15日~18日)には、『北陸タイムス』が藤井黒龍(尚治)を、『高岡日報』は井上江花を派遣した。約30人の記者が取材したという。『北陸タイムス』は続いて竹内水彩(正輔)を福井(18日~23日)に、卜部南水(幾太郎)を金沢(23日~29日)に派遣した。水彩は雑観「行啓落穂拾い」を、南水は雑観「行啓別観」コラム「行啓はがき」を書いた。
『富山日報』は17日、主筆の匹田雪堂(鋭吉)と藤田午山(義農)を福井に派遣し、22日には横山白門(四郎右衛門)を金沢に向わせた。藤田は「行啓余録」というコラムを、横山は金沢から雑観記事「鶴駕の餘興」(5回連載)を送っている。
29日の行啓を前に、冷光は何をしていたのだろうか。隣県に派遣された形跡は紙面にない。この頃の新聞は無署名記事が多い。「冷光」の署名を確認できるのは、ようやく皇太子が富山県入りした当日29日の紙面である。そこには冷光の行啓前日の仕事ぶりが伺える。
まず3面中段に「献納品の製作談」という連載の第1回「丸彫の木馬」が出ている。富山市は、献上品の一つとして木彫りの馬の玩具を選んだ。これを彫ったのは愛宕村にある田村木彫屋、田村六馬(62歳)という彫刻師である。冷光は4か月余り前の5月24日、巌谷小波と久留島武彦をこの田村木彫屋に案内したことがあった。巌谷が東京に帰って三越呉服店にこの木馬を推薦したことから、三越からに注文が舞い込んだという玩具だった。
この連載「献納品の製作談」は、第2回「押絵(八木美津子・富山市清水町)」、第3回「六丈の麻布(104歳の神田ユキ)」と続くが、文章は第1回と似ているので、署名はないが、冷光が担当したとみられる。
「千年目の大晦日」
9月29日3面の冷光署名記事のすぐ後に「行啓前日の富山市」という雑観記事が出ている。署名は「一記者」とあるが、柔らかい筆致から冷光執筆の可能性が高い。前日の雰囲気をうまく書き留めているので、全文引用しておく。28日に市中を歩いて書いたルポである。
行啓前日の富山市
29日朝刊で面白いのは、『富山日報』の2面に載った「注意」という告知記事だ。
殿下を間違えないように、「白の饅頭笠」の車夫が引く腕車を目印にするように、ということである。この注意は、前日の匹田が書いた論壇「奉迎に付いての心得」を要約したものだ。再三こうした注意を促さなければならないほど、庶民はまだ皇族の姿をよく知らなかったのであろう。
発着の度に祝砲21発
富山県内の行啓は、出入りを含めて5日間にわたって行われた。
[第1日]9月29日伏木・福野・富山
[第2日]9月30日富山
[第3日]10月1日富山・魚津
[第4日]10月2日高岡
[第5日]10月3日(早朝離県)
地元富山の新聞各紙は連日特別紙面を立てて、当日の詳細な行動予定と前日あった出来事を「鶴駕奉迎記」などと題して報じた。そこからは現代の皇族ご訪問とは比べようもないほど、華々しいものだったのかが分かる。
この後、駅の発着のたびに祝砲21発が鳴った。御召列車は石動駅に2分間、高岡駅に7分間停車したのだが、そのわずかな時間の歓迎にそれぞれ3875余人、3320人以上が出たというのだからすさまじい。
最初の行啓地となった伏木町では、駅に2万人余りが集まった。伏木港では遠洋漁業船30隻と小舟50隻余りで満船飾が行われた。福野町の駅から県農学校の沿道も、砺波一円から人が集まった。『富山日報』は6万人、『北陸タイムス』は9万5000人で未曽有の人出だったと書いている。
皇太子一行は夕方、富山駅に着き、人力車に乗り替え、旅館へ向かった。新築したばかりの県会議事堂が宿泊先に充てられていた。30分ほど前から雨が降り出し、次第に強まった。人力車は幌をかけずに進んだため、奉迎の人々は皇太子の顔を見ることができたという。沿道の人出は、『北陸タイムス』によると15万人だった。雨のため夜の提灯行列は順延された。[3]
明治42年9月30日、行啓第2日はあいにくの雨となった。天気は最大の関心事で、『北陸タイムス』が天気予報の号外を出したほどだった。皇太子の人力車はやむなく幌を下ろした。県庁とそのすぐ傍らにある県立高等女学校を回った。市内を展望する呉羽山に登る予定だったが、雨のため中止となった。皇太子一行は、新大橋(現在の富山大橋)の上から神通川漁組合の鮎漁を視察した後、歩兵第69連隊(現在の富山大学五福キャンパス)に向かった。付近は、呉羽山のあたりで待ち構えていた人たちが押しかけてきて大混雑となった。
この記事によると、この日の沿道は悪天候にもかかわらず約18万人を超えたという。
この日の夜、富山市の主催で、随行記者を招待して歓迎会が鼬川花見橋河畔にある八清楼で開かれた。冷光の仲介で、洋画家吉田博が《精華》のモデルにしたあの芸妓、玉太郎も手踊りを見せた。また、この会では参加者が総立ちで小原節(越中おわら)を踊ったという。
10月1日、行啓第3日は富山市と魚津町である。富山駅から魚津駅までの北陸沿線の様子がこんなふうに記述されている。
皇太子の一行は魚津から富山に戻ると、夕方、呉羽山に登った。第2日の予定を順延した。29日の午後7時に予定されていた提灯行列は2度順延され、10月1日の夜に行われた。
行啓第4日、皇太子の一行は富山県西部の中心都市、高岡市を訪れた。
県工芸学校では、皇太子が教室にはいると、生徒たちの机と机の狭い間を縫うように歩いた。生徒が予期しないくらいの細かい質問を次々に繰り出し、教員や学生たちを驚かせた、という。『北陸タイムス』は、翌々日の離県のときの記事に「高岡工藝學校に於ける御下問の他縣にたえて例を見ざる所なる」と振り返っている。
皇太子が行啓を終えて帰途についたのは、明治42年10月3日早朝のことである。まだ5時すぎだというのに、宿泊先の県会議事堂から富山駅にかけての沿道には、見送りの市民が人垣をつくった。皇太子を乗せた御召列車は午前5時50分、21発の祝砲が鳴る中、富山駅を出発した。
こうして5日間の皇太子の富山訪問は終わった。
◇
[1]「知事拜謁の模様」『富山日報』明治42年9月13日2面。宇佐美知事に同行したのは、知事官房にいた五艘三郎である。五艘は井上江花の家で大井冷光と語り合ったこともある。この皇太子との面談の情報がなぜ『富山日報』に出ているのか興味深い。
[2]「御料水の警護」『富山日報』明治42年9月18日。
[3]当時、富山県の人口は83万8750人、富山市は約5万8000人である。
1909年(明治42年)の皇太子北陸行啓(富山県分)
9月15日朝 東京発
9月15日夕 岐阜着
9月18日午後 福井入り
9月23日夕 金沢着
(2018.06.03)※表紙写真は石川県七尾市