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【感想】コストラーニ・デジェー『エシュティ・コルネール もう一人の私』
――全くもって奇妙な小説だ。
20世紀前半に活躍したハンガリーの作家コストラーニ・デジェーの小説『エシュティ・コルネール もう一人の私』を読むと、狐につままれたような不思議な読後感に包まれる。成長小説、伝記、不条理小説、ユーモア小説……。この作品を表す言葉は色々とあろうが、それらはいずれもしっくりこない。既存の文学カテゴリーの間を優雅にすり抜けて、批評家をもてあそぶ、そんなしなやかさを持つ作品である。
タイトルに据えられているエシュティ・コルネールとは、この作品の第1章における記述に従うと、コストラーニが物心ついたころから親しく付き合っていたものの、成長するにつれて疎遠になってしまった、ある男性作家の名である。コストラーニは、いつまでも粗野で子どもっぽいエシュティに辟易しつつも、彼がいつも自分の本音や欲望を言い表してくれていることを認めてもいる。エシュティとはまさに、コストラーニが成長の過程で抑圧してきた「もう一人の私」であるといえよう。本作品は、コストラーニが、長年の不和の末に和解を果たしたエシュティとの共同執筆というかたちで、エシュティの話を書き綴ったものであるという設定になっている。
エシュティの物語には、精神病にかかった新聞記者や、超人的に居眠りが得意な会長、盗み癖がある翻訳者など、一癖も二癖もある変わり者ばかりが登場する。そもそもエシュティ自身がかなり変わっている。汚い本音を包み隠さず表明する「正直者の街」に幼馴染を連れて行ったり、遺産で手に入れた大金を手放そうと躍起になったり、全く喋れないブルガリア語でブルガリア人の車掌と長話をしようとしたりと、何かと突飛な行動を取ろうとするのだ。こうした登場人物の描写からは、作家の、精神異常や偏執狂的心理に対する深い関心がうかがえる。とはいえ、彼の物語に登場する変わり者たちの多くは、一見して異常であるとわかるような人物としては描かれていない。知識人然とした身なりをしており、他人よりも優れた能力の持ち主であることすらある。彼らは上品な三揃いのスーツに身を包んだ狂人なのだ。
こうした登場人物の描写のなかには、社会常識を身に付けたコストラーニが、粗野で子どもっぽい「もう一人の私」エシュティを求めた理由が隠されているように思われる。物語の登場人物が徐々に紳士の皮を破って本性を表していくように、コストラーニは、普段は建前が邪魔して表に出すことのできない狂気じみた本音や欲望や悪戯心を、分身エシュティの姿を借りて描き出そうとしているのだ。本書の後半には、建前と本音の間を揺れ動いた末に本音を選び取ってしまう(コストラーニだったら建前を選んでいたことだろう)エシュティの複雑な心理を軽妙かつ鋭く描き出すエピソードが複数挿入されている。現実世界ではいつも理性や建前に打ち消されてしまう欲望の暴走が本作の主要なテーマの一つであることは明らかである。
理性を取り払うというテーマは、作品の構成にも反映されている。本作品は「長編小説」として発表されているが、どちらかと言うと短編小説集に近い。子ども時代から現在に至るまでのエシュティの経験がほぼ時系列に従って描かれてはいるものの、それらは一貫した物語として展開されるわけではなく、章によっては語りの人称が一人称から三人称に切り替わっていたりもする。これはもちろん意図されてのことだ。第1章でエシュティに共同執筆を持ちかけながら、コストラートは言う。
「[……]ひとつ条件がある。そこらのくだらんお話とごっちゃにするな。すべては詩人にふさわしく、断片のままにするんだ」
この発言からわかるのは、コストラーニが、ひとつの筋を持つ理解しやすい物語としてではなく、断片的に描くことこそが「文学的」であると考えているということだろう。目の前で起こった奇妙な出来事にあれこれ理由や根拠をつけて理性的に説明したり、個々の事件に因果関係をつけてそれらしい物語を組み立てるのではなく、不可解なことを不可解なままに描いて読者に提示するからこそ、それを読む読者は何ともいえない衝撃や忘れがたい後味を味わうことができるのだ。あとがきには、実際のコストラーニが、政治思想に囚われず、ありとあらゆる雑誌や新聞に節操なく作品を発表していたと書かれている。このことからわかるのは、彼が思想ではなく、物語を語るという行為そのものに重きをおいていたということだろう。そう、物語とは本来思想の表明ではなく、相手を楽しませようという遊び心に満ちた営みであったはずだ。コストラーニは、いつまでも大人になれないエシュティと手に手を取って、往々にして頭でっかちになってしまいがちな近現代文学の世界に風穴を開けようと試みたのかもしれない。