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『ある晴れた夏の朝』 〜原爆投下は必要だったのか (後編)

こんばんは、ことろです。
今回は『ある晴れた夏の朝』という本のつづきを紹介したいと思います。

第一回の討論会は、五十五対四十九で原爆否定派が勝ちました。
第二回の討論会は、第一回の聴衆が意外と多かったことから場所を小ホールから中ホールへと変えました。
八月十四日、今回もホールは満席です。
原爆肯定派のリーダー、ノーマンが軽く挨拶をし、トップバッターのケンへとバトンを渡します。

ケンは、メイと同じジャパニーズ・アメリカンですが、メイの両親とはちがってケンの両親はアメリカ生まれ、アメリカ育ちです。そんなケンが原爆投下を肯定しているのはなぜなのでしょうか?
ケンの最初の言葉は「パールハーバーを忘れるな」でした。
真珠湾攻撃の話です。
ケンは、日本は宣戦布告もせず一方的に攻めてきたと主張します。真珠湾攻撃は日本から仕掛けてきた。太平洋戦争は真珠湾攻撃から始まった。ならば日本が太平洋戦争を始めたようなものだと言うのです。原爆はそんな卑怯な日本に対する報復だと、卑怯な真珠湾攻撃に対する正しいリベンジだったと言います。原爆投下は処罰だった、犯罪を犯したものは処罰される。その理屈で原爆投下は肯定できると主張します。

間髪入れず立ち上がったのは、否定派のスコットです。
スコットは冗談も交えつつ話し、会場をリラックスさせます。
真珠湾攻撃は一九四一年の十二月七日。原爆投下まで三年と九ヶ月あります。
その三年と九ヶ月の間、戦争はあってもアメリカの方が勝っていたわけだし、三年と九ヶ月経っていきなり「あのときの報復だ」と言って原爆を落とされてはたまったものではありません。
そして、スコットはケンの主張に何点か誤りがあることを指摘します。
ひとつは、実は真珠湾攻撃が行われる三十分前に日本は宣戦布告をする予定でした。しかし大使館に送られた電報を英訳し、アメリカに渡すまでに時間がかかってしまったのです。実際に届けられたのは、戦闘開始してから一時間後でした。そういうわけで、決して卑怯な真似をしたかったわけではなかったのです。
ふたつめは、真珠湾攻撃における「アメリカの勝利」について。これはメイたちアメリカ人にとっては学校の授業でよく習った部分で、会場にいる人たちもよく知っていることでしょう。日本軍はある意味で失敗していた。なぜなら、日本軍は空母レキシントンと空母エンタープライズを破壊することができなかったから。そして日本軍は、基地にあった、艦船の修理施設を破壊しなかった。この二点の失敗のために、それから六ヶ月後のミッドウェイ海戦で、日本はアメリカに敗北することになります。
アメリカは、真珠湾攻撃において、致命的な打撃を負っていなかった。それどころか、この真珠湾攻撃によって、ルーズベルト大統領はかねてより参戦したかった第二次世界大戦への参戦を実現させています。真珠湾攻撃はむしろ、大統領の望むところでもあった。当時、戦争を望んでいなかったアメリカ国民を説得するためには、『卑怯な真珠湾攻撃』は、なくてはならないきっかけでした。
三つめは、真珠湾攻撃で亡くなった人数とその内訳。アメリカ軍基地以外での民間人の死亡者数は、ホノルルで三十三人、パールシティで一人、ワヒアワで二人、ワイパフで一人。肯定派曰く『おおぜいの民間人』、三十七人の大半は、日本軍の攻撃ではなくアメリカ軍の対空砲火の断片、不発弾の爆発などによって命を落としました。よって、日本への原爆投下が三年九ヶ月前の卑怯な騙し討ちへの処罰であった、という主張は通りません。もしもそういう主張をつづけるならば、それこそが不正義であり、罪もない人を罰した、という重罪に問われることでしょう。

会場は静まり返っています。
もしかしたら、真珠湾攻撃が騙し討ちではなかったということを知らない人も多かったのかもしれません。メイ自身、この機会に調べるまでは知らなかったことです。
さて、拍手とともに席へ戻ったスコットですが、肯定派からは中国系アメリカ人のエミリーが立ち上がりました。
立ち上がるとともに、エミリーはメイを鋭くにらみます。
演壇に立って、開口一番エミリーはこう言いました。
「原爆で亡くなった広島と長崎の人々は、はたして、ほんとうに、罪もない人々だったのでしょうか? むしろ、殺されて当然の人々だったのではないでしょうか?」
会場のすべての人が驚きのあまり言葉を失くしているなか、エミリーは金槌で釘を打ちつけるような口調でつづけます。
「なぜなら、当時の日本には、国民全員がひとり残らず、女も老人も子どもも兵士となって、鬼のようなアメリカ兵と戦うべし、そういう法律がありました。日本人ひとりが十人のアメリカ兵を殺せば、戦争には勝てると信じていたのです。現に沖縄でもそのような戦い方をして、アメリカ兵を恐怖で縮みあがらせました。トルーマン大統領は、広島への原爆投下の三日後に、ある人物から届いた電報に対して『日本をこらしめるためには、原爆を落とすしかなかった。獣に対処するには、相手を獣として扱うしかない。たいへん残念なことだが、これは真実である』と返事を書き送っています」
エミリーは『罪もない人々』という点において疑問を投げかけます。
広島と長崎の人々は、「国家総動員法」という法律によって、一般市民でも、罪のない人々でもなく、兵士だったと主張します。
そして、日本兵がいかに邪悪な獣であり、広島と長崎の人々が殺されて当然の兵士だったか、それを説明するためにエミリーは『南京虐殺』について話しました。
中国の一般市民が、残虐な殺され方をしています。昨日まで普通に暮らしていた農民や学生や子どもたちが、無残にも殺されていく、この人たちこそ『罪もない人々』であり、広島や長崎の人々はその頃日本で拍手喝采をし喜んでいたのです。
エミリーは、日本人が憎いとか、日本を嫌っているとか、そういう個人的な感情によって原爆投下が日本に対する妥当な処罰であったと思っているわけではありません。ただ、『罪もない人々』というのがどういう人々なのか、きちんと考えてほしいと思っています。原爆投下は罪もない中国人の受けた苦しみに対する報復であり、第二次世界大戦中、千六百万人もの中国人を殺害した日本軍と、それを支持した人々に対する処罰だった、ゆえに正当な行為だったとエミリーは主張します。

メイたち原爆否定派は、「バターン死の行進」(日本軍がアメリカ人捕虜に対しておこなった残虐な行為)に関するリサーチに気を取られていて、日中戦争については何も調べていませんでした。ケンの真珠湾攻撃につづいて、エミリーはかならずバターン死の行進を取り上げるだろうと予想していたのです。
メイたちはこのバターン死の行進を理由に原爆を肯定することは間違っている。なぜなら行進させられた人たちは「兵士」であり、原爆で亡くなった人たちは「罪もない人々」だったのだから、というシナリオで反撃するつもりでした。
エミリーは涙を拭って、席に戻りました。
制限時間を十分もオーバーしています。
これは大きな減点となります。
しかし、大きな減点があったとしても勝てる自信があったからそうしたのかもしれないと、メイは思いました。

「俺の出番だ」
否定派から黒人のダリウスが立ち上がります。
ダリウスの出番は、エミリーが時間超過したので五分しかありません。
それでも、ダリウスは何か主張することができるのでしょうか。
ダリウスは言います。
自分は見ての通り黒人で、黒人は差別を受けてきた。長い間、白人社会から締め出され、まっとうな人間として見られることも、扱われることもなかった。戦時中だけじゃなくて、常日頃からそういう風に扱われていた。肌が黒いというだけで。だからといって、目には目を、歯には歯を、という考え方を持っている限り、人類に平和は訪れない。みなさん、そうは思いませんか?
時間がないからあまり多くは語れないが、たしかに広島と長崎の人々は軍国主義によって洗脳されていたかもしれないが、職業的軍人ではなかった。竹槍でアメリカ兵を殺すことは、そもそも不可能だ。彼ら、彼女らは、まったく罪もない人たちとは言えないのかもしれないが、あきらかに弱き者たちだった。アメリカ軍の捕虜になることすら許されていない、究極な捨て駒だった。軍の奴隷だったと言ってもいい。かつての黒人と同じだった。そういうわけで、広島・長崎への原爆投下は、単なる弱い者いじめであったのではないかと、俺は思っている。当時、日本は水面下で和平交渉に東奔西走していたという事実もある。おおぜいの中国人を虐殺した日本の軍部は批判されるべきだろう。「バターン死の行進」も然りだ。しかしながら、南京虐殺の罪を、広島・長崎の人たちが死をもってつぐなわなければならないという考え方を、俺はどうしても受け入れることができない……
ダリウスの発言が終わりかけているとき、スコットがメイに走り書きのメモを渡してきました。
そこには「ウィリアム・D・リーヒ」という名前が書かれてありました。
メイはリーヒ大統領付参謀長の「回想録ーー私はそこにいた」の一部をスクリーンに映し出しました。
ダリウスが読み上げます。
〈日本の敗戦はすでに明白であり、降伏の準備もできていた。私の個人的な感覚としては、この兵器を最初に使った国家として、われわれアメリカは、暗黒時代の野蛮人たちの倫理基準を採用してしまった〉ーー

そうして、第二回の討論会は終わりました。
結果はわずかの差で肯定派の勝利。エミリーの涙の主張に負けました。
けれど、メイの両親は「あのダリウスの主張は胸に響くものがあった。数字では負けたかもしれないけれど、本当は否定派が勝っていたんじゃないかな」と言ってくれました。


第三回からは、否定派からのスタートになります。
否定派のトップバッターは、リーダーのジャスミン。
持ち時間は十五分ずつ。合計四人の発表が予定されています。
追加ルールで、もしも時間オーバーがあったら、その時点でそのチームの負けとすることになりました。

ジャスミンが話し始めます。
原爆投下の根本にあるのは、人種差別だったのではないかと。アメリカはもっとはやく原爆が完成していても、白人国家には落とさなかったのではないか。原爆の開発や実験において、選ばれているのは有色人種の土地ばかりです。そして、落とされたのはアジアの小国、日本。しかも、立て続けに二発も。アメリカ側に人種差別意識がまったくなかったと言えるでしょうか。日本がもし白人の国家であったなら、アメリカはあのように原爆を落としたでしょうか。
そのあとでジャスミンは、カリフォルニア州一帯で激しい排日運動があったことについて話し始めました。明治時代、日本の貧しい農村に見切りをつけて、アメリカに移住してきた人たちが、下僕のように扱われ、アメリカに根付こうとしようものなら日本に帰れと反発したのです。それはアイルランド系の移民の人たちでした。
メイや肯定派のリーダー、ノーマンの親はアイルランド系のアメリカ人。
ノーマンはこのことを知らなかったようで、耳を真っ赤に染めています。
メイはジャスミンに聞かされて、思わず父に尋ねました。アイルランド系移民が日本人を排斥していたなんて、アイルランド系アメリカ人の父と日本人の母を見ていたら、とてもそんな風には思えません。
父はこう言いました。
たしかに、アイルランド人はヨーロッパで、イギリス人から差別され、いじめられてきたのに、アメリカに来てからは中国人をいじめ、日本人を嫌った。人間というものは悲しいものだね。でも、だからといって僕はアイリッシュであることを恥じてはいないよ。誇りに思ってる。ある物事を人種単位でとらえたり、こういう人だと決めつけてしまうのは危険なことだし、まちがってると僕は思う。過去のことは反省しないといけない。けれども、それにとらわれたり引きずられたらだめだ。僕はひとりの人間、ひとりの男として、きみのお母さんと恋愛して結婚したんだから。
メイはこの父の言葉をうまく披露できたらいいなと思っています。

アイルランド系の白人が日系人を差別し排斥してきた歴史と、原爆投下は、同じひとつの根から伸びてきたものだ、というジャスミンの主張は十五分きっかりで終わりました。
そして、ユダヤ系のナオミが立ち上がります。
「ばかばかしい! ばかも休み休み言ってほしい! 私は今、そうさけびたいような気持ちです。ジャスミンをはじめとする原爆否定派の言い分には、もうがまんなりません。私の神経は、プツンと切れました。人種差別。戦争と人種差別。なるほど、それはまた、ごりっぱなテーマを持ち出してきたものです。アメリカが、日本人に対する人種差別意識をいだいていたから、原爆を落とした? 仮にそうであったとしても、私は原爆投下を断固、肯定します。なぜなら、当時の日本は、ドイツの同盟国であったからです。ナチス・ドイツの同盟国ですよ! 許せません、そんな国!」
ナオミは、日本の東條英機は、アジアのヒトラーだったと言います。ドイツが降伏した後も、日本は降伏しなかった。だったら、戦争行為として日本をたたくのは当然のことだと。アジアのヒトラーを原爆でこらしめて、どこがいけないのですか? 人種差別を断固反対するがゆえに、原爆投下を肯定します。日本からの移民が受けたいじめが、なんだっていうのですか? 殺されたわけじゃないでしょう? 選別されて、ガス室に送られたわけでもないでしょう? ただ、自分の国へ帰れと言われただけじゃない? そんなのとユダヤ人の受けた地獄の苦しみを、いっしょくたにしないでくれますか?
ナオミが一気にまくしたてている間、後ろのスクリーンにはユダヤ人の絶滅を目的とした強制収容所の生々しい映像が流れていました。
これには、聴衆もため息をつきます。
ナチス・ドイツはどう考えても「悪」でしかない。ユダヤ人こそ、正真正銘の罪もない人々。ナチス・ドイツにはかばおうと思ってもかばえるところがひとつもない。ドイツ自身も、そのことを認めています。そのドイツと日本が同盟国だったと言われたなら、これまた反論の余地はない。
メイたち原爆否定派のメンバーは、まるで足下の床をぐらぐら揺さぶられているかのような気分に陥っています。
ナオミは、つづけました。
世界の秩序を守るために、平和を守るために、軍隊は必要だと。戦争や、人殺しは反対だけれど、軍隊がいることで守られる平和があるなら、あるいはナチス・ドイツのような絶対悪が台頭してきたときに立ち向かうには強い軍が必要だから、その延長線上に原爆は必要だと。人種差別を根絶するためにも、原爆は必要だったと主張します。もしもイラクにテロリストがひそんでいれば、私はイラクへの原爆投下も肯定します、とまで言いました。

ナオミの主張もきっかり十五分で終わりました。
一拍だけ遅れて、拍手が起こりました。
決して、心の底からの拍手ではない、という気がしました。でも、おざなりな拍手でもない。あきらめにも似た共感、という感じです。
メイは立ち上がりました。次はメイが主張を繰り広げます。
メイは、日系アメリカ人がアメリカのためにドイツと戦った『日系人部隊第442連隊』について話しました。日本人移民はアメリカで家族を持ち、アメリカに税金を納め、国の経済や福祉にも貢献していましたが、アメリカから国籍を与えられていませんでした。その子どもたちには国籍が与えられました。
アメリカは真珠湾攻撃のあと、日本軍は西海岸に上陸してくるだろう、そうしたら西海岸に住んでいる日系人は日本軍と協力して戦うだろう、そう思ってアメリカは日系アメリカ人を収容する強制収容所をつくり、日系人を閉じ込めました。カリフォルニア州だけでなく、ユタ州、アリゾナ州、コロラド州、ワイオミング州、アーカンソー州、アイダホ州などにも強制収容所はつくられました。ミッドウェイ海戦でアメリカが日本を破って、戦局が逆転し、もはや日本軍がアメリカ本土に攻め込んでくることなどありえないという状況になってもなお、強制収容はつづけられました。
収容された日系人の数は、約十二万人。
強制収容から半年が過ぎた頃、アメリカ陸軍は全収容所の十七歳以上の日系男子を対象に、志願兵を募ることにしました。そのために用意された二十八個の質問があり、そのうちの27番と28番はのちに「忠誠の誓い」と呼ばれる質問に対し「イエス・イエス」と答えた人は、訓練を受けたあと、陸軍の兵士として、ヨーロッパ戦線に送り込まれることになります。太平洋戦争には行かされませんでした。日本人同士で戦わせたら、敵と味方の区別がつかなくなるから、という理由によって。
収容所から志願して、兵士となった日系人男子は約千人。彼らは『第442連隊戦闘団』に組み入れられ、ヨーロッパでドイツ兵と戦いました。
日系人部隊第442連隊は、前線で孤立していたテキサス大隊ーーテキサス州出身の兵士たちが多かったーーを救い出したことでも知られています。テキサス大隊二百十一人を助け出すために、日系人二百十六人が命を落としました。
この日系人部隊第442連隊と日本への原爆投下の関係性は、三つ。
ひとつは、「イエス・イエス」と言って兵士になり戦って死んだ人たちのなかには、広島出身の両親を持っている人たちが非常に多かったこと。それなのに、彼らの故郷である広島に平気で原爆を落として、ふるさとの町を焼き尽くし、人々を焼き殺した残酷さ。
ふたつめは、「ノー・ノー」と言って志願兵にならなかった日系人の人たちを、収容所に閉じ込めたままにしていた。これこそ、人種差別にほかなりません。
三つめは、先の二つと矛盾しているように思われるかもしれませんが……
個人と個人の前では人種など意味をなさないということ。日系人部隊がテキサス大隊を救いに来たとき、テキサス州出身の兵士たちは塹壕から飛び出していって、日系人たちの肩を抱きしめ、大声で泣いたそうです。テキサス州出身の兵士たちは白人でした。白人だからといって、誰もが日系人を差別していたわけではない。権力や白人国家至上主義と結びついたとき、差別は悪の力をはらむのだと思います。もうおわかりでしょう。日本に落とされた原爆は、悪そのものだった。悪以外の何ものでもなかった。戦争を終わらせる方法は複数あったのに、アメリカは悪を行使した。わたしたちは悪を憎み、悪に抵抗し、悪と戦わなくてはなりません。よって、わたしたち原爆否定派は、原爆を否定しつづけます。

時間はぴったり。
メイは割れんばかりの拍手に包まれながら、席に戻りました。
肯定派からは、ノーマンが立ち上がります。
ノーマンはメイの発言に対する軽い感想を述べてから、自分の主張に移りました。
日本の教科書を調べてきたというのです。一冊ではなく、何冊かの教科書を取り寄せ、大学で日本語を専攻している学生たちの協力のもとに解読し、綿密な分析を加えた上で、発表します。
教科書には〈グループ学習 軍事都市から平和都市へーー被爆前後の広島市のあゆみについて〉と書かれてあります。この教科書によれば、子どもたちは三つのグループに分かれ、リサーチをし、その結果を教室で発表することになっています。
グループ1は、なぜ広島が被曝したのかを理解するために、戦争中、広島がどのような都市であったかについてリサーチする。
グループ2は、原爆投下までのいきさつと、被曝のようすをリサーチする。
グループ3は、被曝体験をのちの世代に伝えていくために、自分たちのできることや、やるべきことは何か、について、リサーチする。
そのあとも、どのようにリサーチしたのか、結果はどうだったのかノーマンが解説していきます。
メイはそれを聞いているうちに、煙に巻かれるような気持ちになっていきました。否定派のみんなも同じような顔をしています。
ノーマンは言います。この教科書を見て驚いたと。なぜなら、原爆が広島に落とされたのは、広島が軍事都市として発展してきたからだと書かれているからです。広島は軍事都市としてめざましい発展を遂げていた、武器工場でおそろしい武器を生産し続けていた、戦争中、大きなあやまちを犯していた。したがって、広島は原爆投下を受けた、受けて当然だった、原爆投下は正当な行為であった、と、日本人教師が生徒たちに教えています。つまり、日本人は原爆を肯定している。この事実と現状から、ぼくたちは目をそらしてはいけないと思うんだ。日本人自身があやまちを認めているのに、なぜ、アメリカ人がそれを反省したり、否定したりしなければならないのか。
メイは途中からノーマンの声が頭に入ってきませんでした。
それほどまでに、ショックなことでした。
日本人は、原爆投下を肯定しているのか。
今までわたしたち否定派が一生懸命調べてきたことが全部、無駄だったような気さえしてきました。
ノーマンは、最後に慰霊碑の写真と英訳を見せました。
〈安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから〉
「Rest in peace / For WE JAPANESE shall not repeat the error」
「we japanese」の部分は強調したかったのでしょう、あえて大文字で書かれてあります。
日本人の懺悔に報いるためにも、ぼくたちは原爆投下を肯定していきます。原爆は悪ではなくて、必要悪であった。これについては最終回でさらに補足するつもりです。以上で、ぼくの発表を終わります。

第四回目、つまり最終回では形式を変えて、八人それぞれに言い残したことがないか自由に発言するスピーチ大会のようなものになるようです。だれかの意見に反論したければそれでもいいし、何か言いたいことがあればそれでも構いません。制限時間はひとり八分。八分が経過した時点で、たとえ発表の途中であっても打ち切りになります。そして、背後のスクリーンは使わないということになりました。


さあ、最後のスピーチ。
メイは7番目。最後から二番目です。

ここからの感動的な展開は、ぜひ実際に読んで確かめてみて下さい。
みなここまでの熱い戦いとは裏腹に、素直な一面が見られると思います。
いろいろな系統を持つアメリカの学生たちが、どんな風に原爆をとらえ、みんなの意見や調べてきた事実を聞いて、どんな風に考えが変わったのか、物語だとしても、そこにはリアルな意見が反映されていると思います。
また、ノーマンが示した「日本人は原爆を肯定している」という部分や慰霊碑の英訳の誤りについても言及されるので、あらためて日本人としてもっと勉強したり戦争や原爆に対する理解を深めなければいけないなと思いました。


長くなりました。
いかがでしたでしょうか?
はじめて前後編で書きましたが、それだけあらすじとしても大切な部分が多かったので、端折りながらも書かせていただきました。
この季節くらいは、戦争について考える時間があってもいいのではないかと思います。
前回の『八月の光』と共に読んでいただければ、なお良いと思います。
朽木祥さんの本には『光のうつしえ』という本もありますから、ぜひ読んでみてくださいね(私もまだ読めていないので、いつか読んで紹介したいと思います)。

それでは、また
次の本でお会いしましょう~!

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