ブックレビュー『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』
以前から、この本の感想ツイートを度々見かけて気になっていたのですが、ようやく読むことができました。
2020年の開高健ノンフィクション賞受賞作です。
栗城史多氏は「夢の共有」を謳い、自分が登山をする姿をネット中継をすることにこだわり続けた登山家です。
SNS上で人気を集め、”インフルエンサー型登山家”ともいえる存在でしたが、2018年5月にエベレストで滑落死しています。
本書の著者・河野啓氏は、丹念な取材によって栗城氏の実像に迫り、彼の死にまつわる謎も解き明かしていきます。
高校卒業後、お笑い芸人を目指した時期もある栗城氏は、大学在学中に登山を始め、登山歴二年でマッキンリー登頂に挑戦。
「技術不足」「無謀」と言われ、周囲に強く反対されますが、奇跡的に登頂を果たしました。
それ以降も、登山関係者からは実力を疑問視され、批判を受けながらも活動を続け、持ち前の愛嬌と巧みな自己演出で注目を浴び、度々マスコミに取り上げられます。
河野氏も、栗城氏を取材したテレビディレクターの一人でしたが、トレーニングを軽んじ、ネット中継登山のスポンサー集めにばかり注力する姿勢に疑問を抱くようになり、関係を絶つことに。
その後、栗城氏は度々エベレスト登頂に挑戦しますが、成功できないまま滑落死し、河野氏は、改めて栗城氏の実像に迫ろうと取材に取り掛かります。
SNSの寵児だったはずの栗城氏がエベレスト登頂に失敗するごとに、応援のコメントは減り、「登山家じゃなく下山家」と揶揄する声が大きくなって、スポンサー探しは難航。
支援を求めるクラウドファンディングで集まる金額も減っていって……という道をたどるのですが、”話題の登山家”だった頃の栗城氏は、こういった著書も残しています。
今回私は、『デス・ゾーン』とあわせて、この『一歩を越える勇気』も読んでみました。
以下、『一歩を越える勇気』からの引用です。
栗城氏が、登山を「冒険のコンテンツ」と表現していることが象徴的だと感じました。
「夢の共有」といえば、何となく美しいことのように聞こえますが、彼にとって登山は、「挑まずにはいられないこと」などではなく、どこまで行っても「人に見せてなんぼ」のものだったのでしょう。
『デス・ゾーン』のなかでは、当人の発言と、周囲の人々の証言から、栗城氏は以下のようなものが好きだったと書かれています。
「スイーツ」「お祭り」「人を喜ばせること」「夢という言葉」「スピリチュアルの類」「インターネット」「家族」。
そして、大学時代の山岳部の先輩はこうも述べています。
「あいつは山が好きなわけじゃない」
2冊を読み終えて、私の頭に浮かんだのは「何者かになりたい人」というフレーズでした。
より正確に言えば、「何でもいいから、何者かになりたい人」。
山が好きなわけじゃない。
登山以外に、何としても成し遂げたいことがあるわけでもない。
だけど、何者かにはなりたい。
そんな若者が、奇跡的にマッキンリー登頂に成功したことで、「自分が何者かになる手段は登山だ!」と確信し、自らを「人々に夢を与える登山家」に仕立て上げた。
けれど、「最大の夢」として掲げたエベレスト登頂を成し遂げられるほどの実力も、登山への情熱もなく、失敗を重ねるうちに、「コンテンツとして作り上げた自分」と「本当の自分」の狭間に落ち、ついには命まで失ってしまった……。
栗城氏の「エベレスト劇場」がそんな悲劇だったのならば、私には彼を「承認欲求を肥大化させた可哀そうな人」のような言葉で斬って捨てることはできません。
登山以外の世界でも、「ネット上に作り上げた自分」と「実像」との狭間に今にも呑みこまれそうな人や、完全に呑み込まれてしまった人を見かけることがありますし、私自身のなかにも「凄いと思われたい」「自分をひとかどの人物であるかのように見せたい」という願望が確実にあるからです。
「何者かにならなくてはいけないという強迫観念」が、時代の空気として漂っている。
そんな風に感じるようになってから、気づけばずいぶん長い時が流れている気がします。
こういうの、いつまで続くんでしょうね。
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