灰のなかで祈る鳥
※第三回かぐやSFコンテスト 選外佳作作品(岸谷薄荷・選)
——ねぇ、ベンジャミン・フランクリンは積乱雲へ凧をとばして雷の正体を突きとめた。凧の色は?
「さぁ、たぶん白じゃないかな」
メイのワンピースの裾が狂った鳥のようにはためいている。うん、これはわたしの想像。鳥なんて見たことがないから。勢いを増す雨は銃声みたい。液状化したアスファルトを貫く。腹這いのままμ計算機のディスプレイを叩く雨粒を袖で拭い、絶縁レインコートを引っ張りかじかむ指を擦り合わせた。下手したら死ぬけど、それはいつものこと。いまは本物の雨に濡れていることがたまらなくうれしい。Daggerとのエンゲージは6秒後。いま、4秒後になった。メイのウェアラブルグラスへ座標は転送済。片手を振ってそれを伝える。メイが後ろ手に小さく手を振り、だけどわたしがとらえることができたのはそのわずかな残像だけだった。
空が光ると同時にDaggerがいっぺんに降りそそぐ。
計算機によると正確には1秒以内の誤差があり、でもそれはわたしの拙い認知からはほど遠く、同じようにDaggerの隙間を縫って舞い踊るメイの実像を追うことはできない。透き通るほどしなやかな人口皮膚に覆われたメイのゆび先が少しだけ放電しているのを、裸足のつま先が飛沫をあげ濡れた髪が上気した頬に貼りついては散らばるのを横目に、0.007秒後にメイへ喰らい掛かるDaggerの座標位置をミューオンの加減速で正確に計算し続けた。Daggescapeに舞台装置はいらない。ほとばしる雷鳴と低く唸る雨の通奏低音、緞帳のような空を無数に切り裂くストロボ、そしてすべてが過ぎ去った45秒後に深々と礼をする逃避者と傍で生き延びた予報士の静かで熱い息づかいがあるだけ。
あなたはMeteologist<気象学者>になるべきだと母さんは言う。週に一度の音声通話で、たしかめるみたいにいつも。わたしの熱が無鉄砲で野蛮な野良競技などではなく、高給の職へ滞りなく傾くように。それが保護者の子を慮る純粋な気持ちから出た言葉だとわかっているから黙って頷く。大丈夫、母さんはきっとちょっぴり不安なだけだから。
「母さんはメイとわたしの競技がどれだけたくさんの人に待たれているかを知ってる?」
「スポンサー料」や「PV数」という言い方をしなかったのは賃金や承認欲求に揺り動かされる魂ではないということを暗に伝えようとしたわたしの矜持の問題。「えぇ」——の後に続く母さんの言葉は決まっていて——「でも、危険だわ」。わたしが返す言葉も決まっている。「Daggerを浴びるのはメイだから」
気候変動による局地的な落雷は年間五千万回を超え、ついにわたしたちは地上を棄てた。だからもうわたしたちが暮らす場所を「地下」とは呼ばない。シェルターの人工照明の下で背中を丸めてプレイするeスポーツに飽きた刹那的な若者たちは一路地上を目指し、群発する落雷<Dagger>に打たれて次々に死んだ。程なくしてDaggerの襲来を避けることができる身体能力を持つ者が現れ、無謀な挑戦は時にひとびとを沸き立たせ、時にあっけなく灰にした。ズドン!
Daggescapeのプレイヤーは「逃避者」と呼ばれる。逃避者——行方のない人生からの、終わりを待つ将来からの、脆く儚いちっぽけな自分自身からの。やがてμ粒子を活用した落雷予測技術を搭載した計算機をオモチャにDaggerの軌跡を分析する予報士とペアを組むようになると、死と隣り合わせだった遊びはスリリングな気晴らしとなってわたしたちは束の間退屈を忘れた。それからそう、貧しさと孤独も。
あくまでゲリラ的にDaggescapeをプレイしていたメイとわたしにスポンサーがついた時、拝金主義だと反対する声も多かった。でも、メイと少しでも長くいるために必要な選択だったと思っている。メイの体に時とともに筋肉が萎縮してゆく病が見つかったのは半年前のことで、わたしはまだ学生で、メイは絶滅寸前のバレエダンサーで、二人で急拵えの小さなシェルターハウスを契約したばかりだった。
それからメイは衰えてゆく体に先手を打つようにスポンサーが提供する人工義肢を装着した。つまりまだかろうじて健康だった手足を切り落としたわけで、「倫理観を問う」抗議のメッセージはいまもやまない。はじめの頃こそメイヘ声援を送っていた者達も、メイが破竹の勢いで記録を塗り替えていくにつれ沈黙した。
世のアスリートが肉体的限界の99.95%に達した今、合わない衣服を脱ぎ捨てるように軽々と機械化していくように見えるメイを抜け駆けだと思う人も少なくなく、それはひとえに呼吸器と排泄処理装置を導入する際、メイが「ほんのついでに」乳房と子宮を切除したことによる。
——だっていらなかったの。生きていくにはとても重いの。
メイの脳波から出力されたAI音声に耳を傾け、そういえば脳波も微弱な電気信号。メイの頭の中のささやかな発雷を思って目を閉じる。手に入れることは、手放すことと同じくらい痛い。痛みの前に倫理なんでクソだ。リハビリの最中にくず折れた体、ベッドで目を見張るメイの浅い息と眠れない夜に繰り返された口笛を、わたしは忘れないだろう。
——あたしは運がよかった。
なぜ?
——病を抱えながら誰かの役に立つことはとても難しいから。すべてのあたしの活動データは治療のための研究材料になるし、肉体的限界を突破するための礎になる。なにより、観る人に夢と感動を与えることができる。
夢と感動。鼻で笑ってしまう。その枕詞のためいったいどれほどの痛みにメイは耐えてきた? 夢や感動は与えられるものではない。無論、押し付けられるものでも。
「卑屈になることなんてないよ」
わたしはメイの肩に手を置いた。わたしたちは役に立つためにここにいるわけじゃない。メイ、この薄い肩に何もかも背負おうとする。
——生きていくにはとても重いの。
Daggescapeは暇を持て余したわたしたちの気晴らしだったはず。生きるか死ぬかの単純な遊び。忍び寄る影から身を翻してそう、逃げる。何から? 逃れられないものから。汚染、酷暑、目覚ましのアラーム、いま、いまが過ぎてゆくこと。すなわち未来。真夜中の電話、約束のない訪問。トントン!
ノックの音が響いたのは試合直前だった。わたしたちはすでに地上のバラックで待機しており、メイは人工股関節の柔軟性をチェックし、わたしは計算機でDaggerの距離を弾きはじめていた。
「本日の競技は中止です」
中へ踏み込んできたのはいつものマネージャーではなく黒い絶縁スーツに身を包んだ知らない人物で、磨き上げられた靴を見て役所の人間だとわかった。
「理由と振替日程を教えてください」メイのかわりに尋ねると、「振替の予定はありません。これからずっと」と黒ずくめは建て付けの悪い扉をきっちり閉めることを諦めた。隙間から吹き込む雨風がささくれた床を濡らす。「急いでシェルターへ戻って」
この日の午前中に行われたスポーツ倫理委員会によってメイは選手権限を剥奪されたのだという。早い話が、メイはもはや「機械」であってヒトではないから、ヒトの補助をする立場であるべきで、主体的に活動させないという判断が下されたのだ。
「メイ、あなたは強くなりすぎた。もはや観客はあなたの姿から恐怖しか感じない」
「夢と感動で稼ぐには、病に侵されながら苦しみ這いあがろうとする人間ドラマを見せなければいけませんか? 痛みに歪んだ顔つきで」
黒ずくめは答えなかった。
「じきDaggerが来ます。1分以内に撤収してください」
計算機のディスプレイへ目を落とし、「それは違う」とわたしは呟く。「Daggerとのエンゲージは15秒後。いま、13秒後になった」
バラックの扉が音をたてて鳴り、振り向いた黒ずくめは雨のなか埠頭へ向かって駆け出してゆくメイのワンピースの背中をかろうじてとらえた。誘電エラストマーの人工筋肉で覆われたメイはさながら鋭い避雷針だった。それか、狂った鳥。これはわたしの想像だけど。メイが後ろ手に小さく手を振り、でもとらえることができたのはそのわずかな残像だけだった。
「自殺行為よ。あの子を戻しなさい!」
空が光ると同時にDaggerがいっぺんに降りそそぐ。
——パージ。
バラックの床に転がったメイの声紋からAI音声が響くと同時に埠頭に立つメイのからだは分解した。Daggerは暗い空を切り裂いてまっすぐメイの人工の部位に喰らいかかる。
黒ずくめは甲高い声で喚きながらなおもこちらへ詰め寄るが、わたしの手は計算を止めない。だってメイは踊り続けるだろう。観客のためでもスポンサーのためでも国のためでもなく、ただ自分のために。手が使えないのなら肘で、足が使えないのなら腰で、瞬きで、息づかいで。それは祈りにも近い、紛うことなき人間の欲求。機械の体のせいでそれが見えないというからメイは潔く棄ててみせたのだ。
メイがどんな姿になろうともDaggerから逃げ切れない結末など想像できなかった。いつだって逃れられないと思われた未来からすんでのところでひらりひらりと身をかわし、死に腕を掴まれそうになりながら、それでも生き延びてきたのだから。逃避者——DNAに刻まれた運命からの、抗うことのできない一切の摂理からの、あつらえられた薄っぺらな夢と感動からの。
わたしは予報士。だからもう見えている。すべてが通り過ぎる45秒後、雲間から指す日差しに照らされ生き延びたメイが深々と礼をするのが。黒ずくめが床に膝をつくのが。やまない拍手が、数値化できない歓声が。きっと会うこともない見知らぬ誰かの胸の中にまだ名もない感情がそっと芽生えるのが。
いま、40秒後になった。