「いいね!」よりも「いいな!」で世界は広がる
YouTube、インスタ、twitter・・・色々なSNSで要求される「いいね」。私も押した経験はある。でも、本当のことを言うと、「いいね」と心から思えないまま押していることもある。特に、知り合いか友達があげている写真や動画に対して、素直に「いいね」ができないことが多い。それらを見ると、もやもやと妬んでしまうのだ。でもだからと言って「いいね」をしないと、今度は自分の心の狭さに嫌気が差したり、友達が減って自分の世界が狭くなってしまうような気がしてくるので、結局ちょっぴりもやもやしながら「いいね」を押す。そうして無理やり心と世界を広げる・・・。
これはSNSに限った話ではない。日常生活において遭遇する周りの人の成功体験を目の当たりにした時もおんなじだ。私はそれらに対して素直に「いいね」と思えずに、なんだかもやもやしてしまうことがある。今日も今日とて、そんなもやもやに苛まれていた。
同期が賞を取った。卒業も近づいてきて、他の人たちも次々と結果を出し始めている。対して私はというと、これといった成果を未だに出せていない。そんな状況もあってか、同期が賞を取ったということに対して、いつもよりも強いもやもやを感じていた。
「どうして私は結果を残せていないのだろう、、、。」
「周りからも無能だと思われてしまう、、、。」
こうした思いが頭の中で渦巻いていた。
こういう類の感情が生まれたとき、私は無理やり「自分は自分、人は人」と自分に言い聞かせることで、何とか自尊心を保ってきた。「その人にはできないことを私はすればいい」と。そうして今日も、いつも通りちゃんと苦しくなった自分を、どうにかこうにかなだめていた。
そんなこんなでもやもやと戦っている最中、先輩と話す機会があった。先輩は後輩が賞を取ったことに対して、ひたすら「いいな!俺も欲しかった!」と言っていた。静かに嫉妬と戦っていた私も、「、、、私も賞取りたかったです。いいですよね、賞」と調子を合わせた。その時気が付いたのだ。自分の気持ちがとてもすっきりしたことに。
そうだ、私も羨ましかったのだ。これまで私は、素直に誰かに「いいなぁ!」と言ったことがなかった。「いいな!」ということで、負けを認めているような、妬んでいるような、そういう感じになってしまうような気がして、それを恥ずかしいと思っていたのかもしれない。だから、「いいな」というより「いいね」ということで、相手に嫉妬しない広い心を持つ自分を演じていたように思う。でも今日、口に出してすごく納得した。このもやもやは、「いいな~~!」という気持ちだったのか!、と。
私は私ができていないことをやってのけてしまう人に対して、ずっと「いいな~~!私もやりたい!」と思ってきたらしい。でもそれが言えなくて、もやもやしていたのだ。
そして、さらに気が付いたことがある。「いいな~~!私もやりたい」という気持ちこそが新たな原動力になるということに。「いいな、私もやりたい」と素直に認めることができると、その流れで自然とそのための手段についても考え始めるようになる。どうしたら私もできるようになるのか、自分に足りないものは何か、と。これは、できない自分を責めたり、そんな自分に落ち込んだりすることと比べて、とても建設的でいいことだ。
何かを成し遂げた人に対して「いいな」と言うことは「いいな!私も負けたくない!」という宣戦布告であり、「いいな!どうしたらできるの?」と教えを乞うことでもある。これらはどちらも、自分が何かに挑戦するときの大きな助けになる。もやもやを抱えたまま「いいね」と言うより、「いいな」と素直に言って貪欲に学んでいく。こっちのほうが、断然自分のためになる。
人に対して「いいな」と素直に言っていたその先輩は、いつも色々なことに挑戦している。それは「いいな!私もやりたい!」という想いをいつも持っていたからなのかな、と思った。だから挑戦し続けられるのかもしれない。
もやもやしながら無理やり言う「いいね」よりも、「いいな」と素直に言うことで世界を広げていきたい。