ひとりひとりの中に愛を見つける活動が始まった予感。
写真は孫のあおちゃん。
欲望のままに素直にすくすくと育っている彼女を見て学ぶことは多い。
今まで特にこの人生が「幸せ」だと感じていたわけではないのに、いざ変化するかもしれない時尻ごみするのはなぜだろう。
そんなことをふと思った今朝。
あぁ、そうか変わるから、変わりたいからこそ、その先の人生が絶対的に「幸せ」であることを保証してもらいたいんだ。そういうことか。
って勝手に納得した。
第5チャクラのアンバランスに気づいたあの日から、どの人生にも幸せの保証がついていることなどないと知った。だけどそれをまだ知らない人からしたら「じゃ、なんのための人生だよ」って困惑するだろうな。
そういえば、今日流れてきたリール動画でとあるスピリチャルセラピストさんが語っていた内容がどうも気に入らなくて、なぜそんなに気に入らないのかと自分に問うた。
ん?
おい、あっこよ。お前も自分の見立てが間違っていない前提で主張してるじゃないか。
対立しないようにしよう。では対立していることに変わりない。
じゃ、調和ある見方をしたらどうなるよ。
相手の中にある愛を見出すんだ。(昨日のnoteにも書いたわ)
愛なぁ。
あ!そうか。そのスピリチャルセラピストさんは《幸せになりたいのに、その手段として得た学びがその人のためにならず、時間とお金とエネルギーを失ってしまった人がいること》を嘆いているんだ。どうにかみんなに幸せになって欲しいんだ。どうにかそのような状況を阻止したいって思うがあまり、誰かを非難してしまう表現になってしまうんだな。
誰も非難せず自分の愛ある想いを伝えるってどういうことだろう。
もしよ、無知がゆえに時間とお金とエネルギーを無駄に費やしてしまったとしてもよ。今まで何にも知らなかった人がそういう目には見えない世界があるってことを知る機会になったということや、今の自分に自信がなく、今の自分はどんな問題を抱えているのかすら不明瞭で生きてきた人が、自分を知る機会にもなったと思うし、そこで新たな出会いもあっただろう。良くも悪くも何が善いか悪いかを判断できるだけの経験を積んだともいえる。
でもこの先はそのサービスが必要ない、もしくは今の自分には合わないということが分かった。ってすごく進歩ではないか?
私たち魂はこの世で体験すること全てを網羅してようやく昇華する。
もれなく、全てだ。
それを知った時めっちゃロマン感じた。
その体験の順番や質なんかは違うけど、お互いが共感する日のために、ぼちぼちと経験を積んでいく。今世憎しみ合ったとしてもうんと先の人生で再び出会い、協力し合う日が来るんだよ。うん。楽しみ。
苦労せずに、は苦労を知っているから分かる感情や思考。
幸せになりたいってのも、幸せが何かを知っているから。
何度も何度も人生を繰り返しながら、私たち魂は少しずつ成長し、愛について学び、活かせるようになっている。昨日より今日。今日より明日の私は経験値がアップしているのだから。
なんだか締まりが悪いけど、今日もなかなか幸せがいっぱいの日だったな。
欲を言えば、ビールをグイっと飲みたかった。ということで去年漬けた梅をソーダ割にして飲んでやろう。