その人といる「わたし」が好き。
どんなにお金を稼いでいても、どんなにたくさんの人と関係を持っていても、どんなに好きな場所で暮らしていても、どんなに努力していても、結局のところ自分でいることが心地よい、好きでないと幸せとは言えない。
自分でいるーーそれが心地いい。
ずいぶん無理して生きてきたなと自覚してからはもうそんな自分でいることが嫌で嫌で、でもそこからどうやって抜け出るのか分からず迷っていたな。
小手先の何かじゃもうどうも拭えない恐ろしさがあって、心が痛かった。
パートナー博揮と出会って、彼といる時間がとても居心地よくって。
世間的にはそれを「恋してる」と周りには騒がれていたけど(その頃はまだ前の夫がいたので不倫だろうと疑われた)、彼に恋をしていたのではなく、私自身に恋していたのだ。
自分にかえる、本来の自分と出会って心が弾んだ。
毎日が色鮮やかで好奇心に満ち溢れていた。希望や勇気が湧き、これまで控えてきたことにどんどんチャレンジした。
これまでの自分がしない選択をすることを許し、どんどん心が開かれ、穏やかさが増していったと思う。
だからと言って【困難】や【苦しみ】がなかったわけではない。むしろ新しいカタチのそれらと対峙することが多々あったが、それもまたこれまでのわたしなら選択しないであろうことを手にし、より心のままに行動した。
もし今この記事を読んでいるあなたが誰かといる自分に苦痛を感じているのであれば、それは目の前の誰かのせいではない。それはあなた自身が問題なのだ。
次の選択を「愛」に基づいたものにしない限り、いつも不安で、恐ろしく、苦痛に満ちた時間を過ごすことになる。「愛に基づいた選択」とは何ともシンプルだ。
それはあなたの心に浮かんだ「言葉」を信頼し、行動し、どんな結果になったとしても、それを信じ動いた自分を心から受入れ、許し、褒め称えるだけだ。
私はわたしでいることを喜び楽しんでいる。それはパートナー博揮と出会ったことで、そういう(無理をしたり、していない)自分がいることを知った。出逢った直後はそれでも無理をしていない、自由な自分を受け入れてはいけないとエゴ(幸せを手にするには何らかしらの犠牲が必要だという部族的信念、思い込みがあった)がうるさかったが、正当な感じがするそのエゴの意見に沿って生きていても辛かった。それなら自分の意見を信じようと努力した結果、今のわたしでいる。
ま、そうとはいえ、
いつでもどこでも誰とでもか、はまだまだだ。
さて、今日は何をして自分を喜ばせるのだろうか。それは部屋の掃除か、いつの日か誰かと交わした約束を果たすか。何を選択するかな。
※※※余談※※※
今朝、歳の差(女性の方がずいぶんと上)の男女の出会いのドラマをパートナー博揮と観ていた。
冒頭から私は「へ?この二人がどうにかなるの?ちょっと歳の差あるよね」と話していたが、博揮は「ん?それ関係あると?」とつぶやいていた。
あ、私のほうがまだそれに偏見があることを知って恥ずかしくなった。自分と誰か、自分と自分を隔てるたくさんの境界線(偏見・思い込み)がなくなっていく、それが願いなのにな。