「言葉にしないままの言葉」-noteに書くことを禁じられたら-
noteに書くことを今禁じられたら、
ちょっとつらいだろうなあ。
――SNS依存と言われればそれまでだが。(笑)
今こうして毎日何かしらを書くようにしてみると
(以前はだいたい週1,2回ペースでしたかね?)、
こうしてここに書くことが
一つの「流れ」みたいになっているので、
それを急に堰き止められたらどうしよう?
というようなそれは感覚なのである。
「日々言葉にしてみる」というのは、
思った以上に、
自分にとって「よい流れ」だったし。
そして、思った以上に、
もしこういう場を自分で自分に与えなければきっと
「言葉にしないままであっただろう言葉」は
きっとその一日一日にたくさんあったはずだ、
と、そんなことに改めて気づく。
――そして、滅法忘れっぽい自分だから
(歳とって拍車はかかっているが、
正直、昔っから忘れっぽい質でした。笑)、
書き留めなければ、
「はじめからなかったこと」になっていた言葉も
その中には案外たくさんあった気もする。
「ありとあらゆること、何でも話せる相手」
というものが、自分にはいない。
実家の家族に話しやすいことはあるが、
絶対話せないこともある。
このことを話すとしたら?……で、それぞれ、
その話の方向性ごとに思い浮かぶ友人知人もいるが、
やはりまた逆にその人たちのそれぞれに
「話しにくいタイプのこと」もある。
で、もちろん、この場所、つまりnoteにも、
何でも書けるわけではない。
――しかし、もしかすると、
「現実の顔見知り」の方々には話せないことを、
割とここにもってきて書かせていただいている感は
すごくある気もする。
言うなれば、
「言葉の窓」は、
たくさんいろんな方向に開いてあったほうが
胸中の風通しは間違いなく良く。
そして、
「唯一この方角にだけ、この部屋には窓がないんだよなあ。」
とこれまでなら思っていたところに、
こうしたSNSのおかげで、
窓が作れている感じがするのである。
こういうSNSの場というのは、
語り出しは完全にある種の「一人語り」である。
それがいいのだ。
たとえば、少し込み入った考えや、
重めの体験談などは、
割と近しくなった「現実世界の人々」には、
遠慮がはたらいてしまって、
自分は「本当に話したい地点まで」は
とても話せなかったりもする。
「気が向いたらでいいんです。
もしよかったら、読んでみていただけませんか?」
これがSNS文章の良いところである。
――そう、話を読んでくれる人に、
何か答えや救いを求めているわけでは
必ずしもないわけであるが、
しかしこれが下手に「顔見知り」相手で、
「直に語る」となると、
相手も「何か意味ある事をその場で返さなきゃ」と
気を遣うだろうしなあ……、と、こうなるわけである。
そして。
言葉というものは、案外、
相手に向かって投げると同時に、
自分に向かって投げているところもある。
で、自分に向かって投げることすらしなければ、
つまり一度も言語化しなければ、
自分の中にある言葉のはずなのに
「自分自身さえ聞こえないまま」
ということもまたよくある気がする、ということである。
「自分の言葉」とは、もしかすると、
時には、まず真っ先に、
自分自身で自分の声に意識的に耳を傾けることも
必要な場合も多いものなのではないだろうか。
そういった意味で、
noteというような「書き留められる場所」というのは
自分にとって大切な場所になりつつあるわけである。