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哀れみを乞う祈りからの卒業。世界は私から始まる。~momoの『ほほっ~日記』~

2020年10月8日。
今日は、祈りの不思議と理不尽について
前々から思っていたことがつながりそうなので、
書いてみよう。
祈りには、
『哀れみを乞う祈り』と
『自分から世界を照らす祈り』があると思うのだ。
この違い
今朝のTANDEN瞑想会で腑に落ちる感覚があったので 
書きとどめよう。
これからひっくり返るであろう世界を乗り切る
Keyになるポイントだと思うから。

世界は祈りにあふれるのになぜ届かないか?

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戦後、宗教というものが
教育の場や生活の中に消えたように見える日本では
『祈り』がとても遠い。
なので、日ごろ『祈り』を意識することがないけれど、
世界では、日々こんなにも沢山の人が、一心に祈っている。

一番上から、イスラム教のメッカでのアラーの神への祈り。
イスラム教では、一日5回。
日の出の前から一日が暮れて捧げられるまで
祈りを軸に世界が回っている。
二番目は、キリスト教の祈りと救いのイメージ。
三番目は、ヒンズー教の神のイメージ。
四番目は、祈りの島と言われるバリ島での日常風景。
家のお寺かコミュニティーのお寺での祈りの風景。
210日周期のバリの暦でいまだに祈りとともに
生活は回っていて、
大半は何かの神様の日で埋め尽くされている。

しかしだ。
世界を見回せば、
こんなにも沢山の『祈り』にあふれているのに、
なぜ私たちが住むこの世界は、
こんなにも混乱と戦争にあふれているのか。


特に、バリ島にいたときは、つくづく思ったものだ。
バリ島には近隣の他の島からやってきた
イスラム教の人も多く
毎朝、夜明け前、朝一番に聞こえて来るのは
コーランの祈りの声だった。
言葉の意味は分からないが、
伸びやかに朗々と歌い上げる声の響きは
耳にどこまでも心地良い。
迷いなく毎朝、信者の勤めとして
祈りを歌い上げる生活をしている彼らに
ほんの少しの羨ましさがあった。

そして、午前6時、
今度は、村々のラジオから
バリヒンドゥー教のガヤトリーマントラが
大音量で聞こえてきて一日が始まる。
(ちなみに、これはかなりのだみ声のお経のような音。
 録音が繰り返し放送されているようで、お世辞にも気持ちの休まる声ではなかった。魔除けの意味もあり、正午と午後6時にも繰り返される)

こんなにも『祈り』にあふれているにもかかわらず
果たして、世界が調和からほど遠いのはなぜ?
混乱のるつぼなのは、なぜなのだ?


ふと冷静になれば、『結構変な話』ではないか!?
祈りでは、争いや不和は願わないわけで
人間にとっての平和や生活の糧、
ささやかな願いがほとんどだというのにだ。
それなのに、
貧しい人は貧しく、
空気は汚れ、ゴミは積み重なり、
およそ祈りの言葉が聞き届けられているとは思えない。

祈りに含まれる『哀れみ成分』と『限界設定』

祈りが届かないのはなぜか?
あくまで個人的意見だが、
祈り方が間違っているのだと思うのだ。
厳密にいえば、方法というよりは、方向性。
あるいは前提となる地平とでも言おうか。
ふと讃美歌の歌詞を思い出す。

ミゼレーレー
Miserere mei, 
神よ、わたしを憐れんでください、
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐって下さい。
わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めて下さい。

『神よ。私に哀れみを!』
問題はここなのだと思う。
この短い言葉の中に、人間は、
神に哀れみを乞うべき愚かで、力がない存在という
構造の中に閉じ込められている......のだと思う。

(これは、あくまで私の見方ね。
別に誰かにケンカ売ってるわけではないからね。)
何しろ、私の『ほほっ~』日記ですから。(笑)

でもね。やっぱり思うのですよ。
『神さま』を上において、
人間を下において救いを求めて『祈る』とき。
人間本来の力は、
何百万分の一、
あるいは限りなく小さく小さく縛られてしまっていると。
これは『神様』が『仏さま』になっても、
『アラーの神』でも『シヴァ神』でも『宇宙人』でも同じね。
全部をしっかり調べたわけではないが、
信者の勤めとして強制される『祈り』には
この制限がしっかり入っていると思う。


『世界と自分が一体化するところ』からの祈り

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小出遥子さんの主催されている
朝のTANDEN瞑想、ゆるーくて、
何物も上にも下にも置かない地平からの眺め方が好きで
飽き性の私もなんだかんだと参加している。
ここで、今日のお題の『世界の届かない祈り』と
どういう風にリンクしてくるかってのは
今日の瞑想後のシェアの時間での言葉。
『私が世界であるということ。祈りは、そこから始まる』
というような小出遥子さんの言葉からだ。
『私が世界であるという感覚』あるいは
『私が世界であるという一体感』だったのか、
語尾を失念したのだが、いずれも同じ意味。

私の解釈だが
自分たちの生きるこの世界を
大きな命としてつながった世界として体感し、
そこから祈るとでもいえばよいのだろうか。

あるいは、
この目に見える世界に現れた側と
現れる前の見えない世界、
どちらをも『丸ごと自分につながる世界』ととらえる
ところに降りていき、そこからの祈りともいえるだろう。


思うに、
自分が体験する世界とは
自分の手に持ったろうそくの光で照らす世界を
観ながら歩いているようなもの。
『哀れみを乞う』祈りは、
自分の手にろうそくをともさず
一生懸命に
『どうか部屋の電気を付けてください!
 暗くて、何も見えずに、足には何かがぶつかり、
 けがをして大変なのです。
 怖いのです。恐ろしいのです。』
と祈るようなものといえばわかりやすいだろうか。

まあ、
ろうそくを灯そうにも
寒風吹きすさぶ嵐の中では、難しい。
あるいは濃い霧の立ち込める寒い夜には
自らのろうそくをつけるなんて発想は
できない時代がついこの前まであったのだから。
だから、集団で一心に祈ってきたのだろう。
しかし、
立ち込めていた霧は立ち消え、
朝日の登る前の暁。
鳥の声が聞こえ始めるようなころ。
手にろうそくを持っていることを
ふと思い出したようなものだろう。

外の世界に大きな形となって
うごめく生き物に見えていたものは、
手に持ったろうそくが暗く、
ほの暗い灯の影にある
小さなホコリや枯れ葉だったと
気づかされる時だともいえるだろう。

禅の世界での解釈はよく知らないが、
現実に形どられるこの世界に
現れる前の世界。
たちあらわれる前の世界とつながる意識
そのものが本来の自分であり、
そこには自他の区別も
善悪の区別も
光闇の別もない。

現実世界に現れ、
制限を付けられる前の意識の世界に立ち戻り、
自分のろうそくを手に携えたその場所から
発するシンプルな『祈り』。
こんな場所からの『祈り』には
何百人もの僧侶や信者が祈るより
制限がない分、
ストレートに届く力を秘めているのだ。
同時に、
『自分の中心からの祈り』には
自らの現在、過去、
そして未来を癒す力がある。

そして
自分が自ら手にした
ろうそくで自ら世界に立ち
自らの影として現れていた
恐怖を、制限を手放すとき
自分の合わせ鏡として立ち現れる
『世界』を同時に癒す力があるのだと。

こんなことを思う、
朝のTANDEN瞑想会でした。
言葉にするとなんだか気張っているが
こんな毎日刺激的な瞑想会♪♪おもしろすぎる~。
明日は何が飛び出すやら~。



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