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新旧・お盆とお墓つれづれ

私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています (千の風になってより)

今年は、
ロックダウンで海外への飛行機が飛ばないために、
お盆に親や兄弟の顔を見ることもなく過ごしたのだが、
お盆に実に平和な夢を見た。
義理の両親の家に
それぞれに離れて暮らす我が私たち母子そして夫。
そして義理の弟夫婦が集って居間で団らんをしている。
義理の母の心配の心もふと意識を合わせると
感じられ、
リアルであってたあいなくテレビをみあうような
まったりとしたゆるい感覚と体感を
あじわって目が覚めた。

お盆とかお墓とか。
古くて堅苦しいものは、とかく苦手なのだが
ふと思ったのだ。
私たちの世代は、万が一このまま死んでも
こうやって意識の世界で
『盆だから親に顔をみせんと!』
という軽い意識でどこかの次元で
時々集うのだろう。

キュウリやナスの背中の乗り物は
もう必要なくて、
ふと思い出したその時に、
ふっと千の風にのって集うのだろうと。

見えない世界への考えや
意見の相違は、各自あるのだけど
この世で、家族として出会ったご縁を持つ魂は
やはりふと思いが重なった時にいつでも出会いあっている。

肉体を超えて自由に集まりあい、
慈しみを伝えあって水のようにまじりあい
またそれぞれの魂にもどっていくような
実はそれほど自由に
行き交うことをしているのだと。
そんな思いがやってきた。

すると、離れて過ごしていることの
距離感はぐっと縮まりあって、
出会ったご縁の濃さのありがたみと
しかとつながりあっている安心感がわいてきたのだ。

墓に入るか?誰と入るか?

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義理の両親は、
数年前に自分たちがなくなった時のことを見越して
永代供養つきの納骨堂を仲の良い親戚と共同購入したと話していた。
『冷暖房付きだから、夏も暑くない。
 マンションみたいで草抜きもしなくていいから、
 あんたたち(夫のこと)も楽だろうから。
 入りたいなら、あと何人分空いているよ!』
と言われた。

これは、夫の実家での会話であるので
問われているのは、夫であって、私ではない。(ハズ!)
私は内心、
『え!?閉所恐怖症の私は、コンクリートの箱に入るのは無理です。
 どう頼まれても、冷暖房が付いていても
 毎日たとえ大好きなスイカのお供えが付いていてもご勘弁です』

と思ったのだが、もちろん口には出さなかった。

とうの夫はといえば
何を言われても、のらりくらりと聞いているような、
聞いていないような独自の業で、なんと返していたか定かではないが
返事をしないまま切り抜けるという態度だったと記憶している。


こんなことを思い出したのは、
折しも今年の夏、NZに住む友人から彼女の親との
お墓をめぐる世代の摩擦を聞いたからだ。
『実家の母が
 すでに結婚している姉に
 死んだらあんたも一緒に〇〇家の墓に入ろう!』といったら
姉が、『いや私はお母さんとは一緒に入れない』と答えたところ
実家の母がすごく落ち込んでいるというのだ。
彼女曰く。
『私は、正直、死んで後に墓に入りたいとは思わないし、
 よしんば入らなければならないとしたら、
 のんびりした気持ちになれる人と入りたい』


 また別のご家族の話は、
昭和一桁生まれの旦那さんを見送ったある女性の話。
亡くなった夫の初七日が過ぎて、
四十九日を仏教の流れにのっとって執り行おうとしたら
『お母さん。無宗教でいいじゃない。
私たちは、そういう風にそだてられたわよ。
なんで今になって、いまさら仏教の様式が必要なの?』

死んだあとの還る先のイメージ

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昭和40年代生まれ、少々変人濃いタイプの私。
この私が持つ、死んだ後の世界は、冒頭の千の風よろしく
肉体は大地に帰り、
意識は空につながる広い世界を風になって自由に
めぐるイメージだ。

なので、いくら死んだ後の体だとしても
そのい一部が、
コンクリートの箱の中に入れられて囲いを作られてしまうことに
違和感がある。

ご縁のあった物質としての肉体の名残は、
できれば土か水を経由して
大いなる自然に返してほしいと願っている。

日当たりのよい木の根元に埋められ
花が咲き、次の世代の子供の声が感じられる場所であれば
望外の喜びである。

ただ、人は肉体を離れても
意識が意識するところに帰ってゆくので、
『死んだ人間は、墓という場所が居場所であって
 そこに還るのだ。
 そこに自分の居場所がないと困るのだ。
 そしてその居場所には
 自分を守る〇〇がいなくては困る』と思う人の世界では
墓がどうあるかが、一代きっての重大事になる。

日本人は、こういう話を日頃からするのが苦手のようだ。
『縁起でもない』という言葉もその表れだろう。
しかし、人間、死亡率100%。

その時に起きることは、
既存の宗教や、神さまや仏さまが決めることでない。

人間の肉体に宿った意識が
磁石のように行く先を選び、
違う次元でその世界を体験するにすぎない。

意識の世界は
肉体を持った世界よりは軽いので、
自由に瞬時に意識した世界にマッチして体験するのだから。

そういう意味で、
生きている時に思い描く『世界』が大切なのだ。
そんなことを思う、今年のお盆、お墓話でした。

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