笑いのツボが合う友達
これは友人が以前他の友人と話していたこと。
何がどうやってそうなったのか、
「通学路って概念だよね!」という話になったらしい。
通学路というのは児童1人1人に明確に「この道が通学路だよ」と定められたものではなく、境目などなく漠然と広がっているものだ。
つまり、「通学路」の指すものは、「道」という「実在するもの」ではなく、「概念」である。
ゆえに、「〇〇くんが通学路から外れてました!」などという主張はできない。
ということらしい。
私はこの話を友人から聞いて、それだけで爆笑してしまったのだが、他の友人に話してみた反応を見る限り、どうやらこの通学路概念説をすごく面白いと感じる人はレアらしい。
大体の人が、「はい?」という反応をするか、苦笑いするか、である。
この通学路概念説を通して感じたことは、当たり前といえば当たり前なんだけれど、
何に対して「面白い」と感じるかは人それぞれ、ということだ。
私が面白いと思うものが、ある人にとっては全く面白くないものかもしれないし、もしかすると「何を言っているんだろうこの人は?」というレベルで、全く理解できないかもしれない。
もちろん逆に、誰かにとって面白いものが、私にとってはとてもつまらないかもしれない。
誰かと一緒にテレビを観ていると笑いだすタイミングがまるで違う、なんてことは、誰しもが一度は経験があるのではないだろうか。
もちろんこれは「面白さ」だけではなくて、「感動」とか「悲しさ」とか、様々な感情に関して言えることなのかもしれないけれど。
そう思うと、私のとても仲の良い友人たちには、私と「面白い」と感じるラインが近い人が多いことに気づく。
友達が「面白い話」として話し出したことの多くは私のツボにはまるし、
一緒に歩いていると、道端で見かけた変わったものとか人とかを見て、同時に笑いだすこともよくある。
本当にちょっとした、くだらない話でいくらでも一緒に笑い続けられたり、ツボにはまっているところを見て、またそれが面白くて笑いが込み上げてきたりするのだ。
もしかすると、
仲良くなれるか否かというところに、この「笑い」のラインが大きく関わっているのかもしれないし、長い間一緒にいることで感覚が似てきたのかもしれない。
それぞれが面白いと感じることをたくさん共有しあってきたことによって、元々は面白いと感じていなかったものにも面白さを見出すようになったのかもしれない。
こうやって考えてみて、改めて気づく。
同じ笑いを共有できる人がいるということが、どんなに幸せなことで、どんなに貴重なことか。
もちろんこれも、「面白さ」だけではなくて、「感動」や「悲しさ」とか、様々な感情に対して言えることなのだけれど。
それが、笑いのツボが近い人と偶然出会えたからだとしても、一緒にたくさんの時間を過ごしてきたからだとしても、
これからもそんな人たちのことを大切に、過ごしていきたいと思う。
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