
論語と算盤|ビジネスは道徳で勝つ!
1、人格の劣化といかに向き合うのか
「日本人は素晴らしい」と外国人に誉めさせる番組が人気だが、その裏で日本人の人格は劣化していると言わざるを得ないのではいか。
・感情のコントロールができない―コンビニで怒鳴る中高年
・この世の終わりのようなヤフコメ―ネット空間での言論リテラシーの低さで、人を簡単に傷つけ、嘲う
・外国人や少数派に対する不寛容―自分たちは白人に褒められていながら、中国はじめアジアを無意識に見下すように誘導するメディア
・想像力に欠けた若者叩き―「髪を染めているから」「ブランド物に夢中だから」といったアスリート叩きはその代表
・未来のことを一つも考えない政治家―財政改革の先送り、自分の再選のことばかり
・気候変動―再生可能エネルギー政策の迷走
・ひろゆきのような「論破」が持て囃される―相手に対して優位に立ちたい、さもしい欲望
その原因は、核家族化、孤立、経済格差、情報の民主化にある。そしてこれらは、資本主義というシステムから生まれた歪みである。資本主義は人類に比類ない繁栄をもたらした。私たちは、祖先のだれよりも清潔で、安全で、生物学的に満たされた社会に生きている。
資本主義がもたらした世界経済の成長とテクノロジーの発展は飢餓や貧困を打倒しつつあり、わたしたちの日常は17世紀の王侯貴族よりはるかに豊かで、清潔である。
一方で、人類の欲望という本能をエンジンとする資本主義によって生じた歪みは、わたしたちの人格を侵食しようとあちこちで手ぐすねを引いている。
(渋沢栄一は)論語の教えを実行の世界に植え込むことによって、そのエンジンである欲望の暴走を事前に防ごうと試みたのだ。 p10
いま日本は人格の劣化と歴史的な衰退局面を迎えている。人口が減り、衰退は決して避けられない。人口減少による財政の収入は頭打ちになり、地方は打ち捨てられたインフラ、老人、空き家だらけになるのは間違いない。
「世界第3位の経済大国」という資本主義の物語の中で、日本人はその主人公の一人であるという自意識と自負心があった。しかしいま、新たな物語と自己認識が必要ではないか。
つまり、グランドデザインである。それは政治、経済、テクノロジーのみならず、「人はどうあるべきか」「人とな何か」という問いからスタートすべきではないか。
国という共同体の最小単位は個人である。国づくりは人づくりなのだから。
そのヒントとなるのが本書『論語と算盤』にあるのではないか、というのが本書を読んでの最初の感想である。
この最初の所感は、ある意味であっているし、ある意味では間違っていた。本書は社会に対する大きな物語の提示以上に、起業家である「私」自身に対して深く突き刺さる一冊であった。
2、「論語」とは―古代中国の奇跡
論語とは古代中国春秋時代の思想家、孔子の思想をのちの弟子たちが編纂した書物であるとされている。論語を中心とした儒教はイエスの、ムハンマドの、ブッダの、マハーヴィーラの教えと同じく、後の国家権力と強く結びつき、極東に生きる我々の思考の、思想の、集団心理のOSとして稼働している。
論語には、おのれを修めて、人と交わるための日常の教えが説いてある。論語はもっとも欠点の少ない教訓であるが、この論語で商売はできないか、と考えた。そしてわたしは、論語の教訓に従って商売し、経済活動をしていくことができると思い至ったのである。 p21
この一文を正しく解釈しなくては、本書はただの説教くさい、カビの生えた本になってしまうようにわたしには思える。
渋沢栄一はなんのために「論語」を江戸時代から持ち出したのか。資本主義をインストールしつつあった大正の世において商売における道徳や人格について考え、実践することを商工業者に、そして今を生きる我々に期待したのか。
それは、経済活動をしていくため。資本主義という競争の中で負けないための生存戦略として「論語」が「使える」ことを示すためである、とわたしは考えている。
資本主義という欲望のシステムの中にただ身を委ね、強欲を加速させる形でで自分のことだけを考えた事業を展開し、自らを磨くことを怠る人間が実業界で成功するはずもない。こうした人物は、自分も周囲も不幸にする。
「人としてこうであれ」「日本人とはかくあるべき」という思想を超え、「富を築き、自己実現し、仕事に打ち込み、成功した人として人生を全うするために」、「論語」に従って道徳的であれ、人格を高めよ、と渋沢は説いているのではないか。
渋沢はそのように自分を磨く道を「修養」と呼ぶ。
3、修養
3-1、渋沢の憂い-「人の劣化」について
大正の世と令和の世。政治体制もメディアの形も、教育も何もかもが異なる。まるで別の世界の出来事のようだ。しかし本書で垣間見える渋沢の「嘆き」は、彼の生きた時代とわたしたちのイマが確かに地続きであることを実感させる。
今日の人にはレベルが高く視野の広い気質や行いがない。富は積み重なっても、哀しいかな武士道とか、あるいは社会の基本的な道徳というものが、なくなっているといってもよいと思う。つまり、精神教育がまったく衰えていると思うのである。 p46
19世紀末に渋沢が嘆いたこの言葉は、今の日本にもまったく当てはまるのではないだろうか。
わたしは常に、精神の向上を、富の増大とともに進めることが重要であると信じている。人はこの点から考えて、強い信仰を持たなければならない。 p47
西洋おいてキリスト教がそうであるように、日本において精神の向上に向けた強い信仰の対象とすべきと渋沢が考えたのが「論語」であった。
明治時代になってから何か新しい道徳が生まれたわけでもない。だから思想界はまったくの混乱状態で、国民はどれを信じてよいか判断に苦しんでいるくらいだ。このため一般の青年たちも、人格を磨くことを忘れ去っているように見える。これはとても憂うべき傾向である。世界の大国のいずれも宗教を持って道徳の規範を樹立しているのに比べ、わが日本だけがこのありさまでは、大国の国民としてとても恥ずかしいことではないか。 p142
大正の世と同じく、令和の青年たちの現状も憂うべき傾向にある。彼ら彼女らは自己承認欲求を満たし、「すぐに役立つスキル」に飛びつき、自らの渇望のままに振る舞うような「自分らしさ」を、アルゴリズムやマーケットに押し付けられてしまっている。
もちろん、国民誰もが人格を磨くことができた時代・地域など存在しない。「精神性」という観点から理想化される嫌いのある江戸時代には、武士の一部だけが高い人格を磨くことができた。しかし、社会を導き、人々に影響を与える立場となる青年/壮年の人格が劣化しているところに、現代日本の大いなる憂いがある。
3-2、渋沢の考える「修養」とは
だからこそ青年は自らを「修養」し、人格を磨くべきであると渋沢は説く。ここで一旦、本書で示されている渋沢の考える「修養」の意味を抜粋する。
「修養」自分を磨くことは、どこまで続ければよいのかというと、これは際限がない。ただし、このときに気をつけなければならないのは、頭でっかちになってしまうことだ。自分を磨くことは理屈ではなく、実際に行うべきこと。だから、どこまでも現実と密接な関係を保って進まなくてはならない。 p134
現実だけ知っていても充分とはいえないし、かといって学問の理論だけ身につけていても社会に打って出ることはできない。この両者がよく調和して一つになるときこそ、国でいえば文明が開けて発展できるし、人でいえば完全な人格を備えた者となるのだ。 p134-135
おそらく自分を磨くというのには、広い意味がある。精神も、知恵や知識も、身体も行いもみな向上するよう鍛錬することなのだ。 p141
決して極端に走らず、中庸を失わず、常に穏やかな志を持って進んでいくことを、心より希望する。言葉を換えれば、現代において自分を磨くこととは、現実のなかでの努力と勤勉によって、知恵や道徳を完璧にしていくことなのだ。つまり、精神面の鍛錬に力を入れつつ、知識や見識を磨き上げていくわけだ。しかもそれは自分一人のためばかりでなく、一村一町、大は国家の興隆に貢献するものでなくてはならないp138
3-3、渋沢の考える「実際に効果のある人格の養成法」
また引用が長くなってしまうが、自らを磨く「修養」を実践する上で渋沢が基盤とすべきと考えている「論語」=儒教の教えは以下のとおりである。
わたしは青年時代から儒教に志してきた。その始祖にあたる孔子や孟子といった思想家はわたしにとって生涯の師である。だから、彼らのとなえた、
「忠」=良心的であること
「信」=信頼されること
「孝弟」=親や年長者をうやまうこと
などを重視するのは、とても権威のある人格の養成法だと信じている。要するに、忠信孝弟を重視するのは、
「仁」=物事を健やかに育む
という最高の道徳を身につけるために、また、社会に生きていくうえでも一日も欠かせない条件なのだ。
この忠信孝弟を、自分を磨く上うえでの基本にすえたなら、さらに進んで知識や能力を発展させていくための工夫をしなければならない。知恵や能力の発展が不十分だと、社会でなにかをやろうという場合、完全な形でやり遂げられなくなってしまう。これでは忠信孝弟さえ、うまく実践していけなくなってしまうだろう。なぜならば、知恵や能力がきちんと発達しているからこそ、物事に対して良し悪しの判断ができ、生活を豊かにしていけるからだ。この結果、忠信孝弟のような根本的な教えと一致した形で、世を渡るうえでの誤りや失敗もなく、成功した人として人生を全うできるようになる。」pp145-146
人格を磨く=自らを修養するには、まず自分の中心に据えるべき「道徳的思想」が必要であると渋沢は説いているようだ。西洋におけるキリスト教のように、渋沢にとっては「論語=儒教」こそがそれである。
その道徳的思想を基本としてしっかりと据えたのち、知恵や見識を磨き、能力を伸ばしていけと説く。
つまり「道徳的思想に帰依すること」と「知恵や見識を深めること」は、『成功した人として人生を全うする』ために不可欠な両輪であるということだ。
3-3-1、道徳的思想についての考察
「さぁ、明日から自分を磨こう!」
などと決意したとして最初に苦労することは、基盤とすべき道徳的思想を選ぶことと、それを深く理解することではないだろうか。
渋沢が深く帰依した儒教はもちろん、キリスト教、仏教、あるいはアリストテレス、武士道など、道徳的思想の基盤に据えることができる選択肢は多い。とはいえ、渋沢が想定しているのが「道徳的」思想であるから、マルクスやハイエクのような経済思想、ドラッカーやダン・S・ケネディのような経営思想は排除されそうだ。
苦労して道徳的思想を「これだ!」と選んだとき、もう一つの「課題」が首をもたげるだろう。それは、生涯に渡ってその道徳的思想への理解を深め、実践する必要がある、ということだ。渋沢が終生「論語」を手放さなかったように。
この段において、わたしは天に恵まれた。ブッダの説いた「ダンマ(Dhamma/ダルマ/法)」という、帰依する道徳的思想に出会っているからである。渋沢が孔子や孟子を師としたように、わたしはブッダを師としている。
わたしは生涯に渡って「ダンマ」を学び続け、自身の成長や環境の変化に応じて解釈をアップデートし、朝晩1時間の瞑想を通じて、生活の中で実践する生活をする覚悟と、短いながらも4年の積み重ねがある。
ダンマと「論語」はその思想的基盤の背景となった時代も地域も異なる。しかし、本質的には目指すべき方向は同じであると考えている。儒教と「論語」が忠信孝弟、そして仁を基盤に据えるように、ダンマにはシーラ・サマーディ・パンニャー(戒定慧)がある。
シーラとはまさに「道徳律」と訳されるように、「社会において道徳的にどう生きるのか」という道筋を示してくれている。
渋沢はまた、人格を磨くには精神面を鍛える必要があるとしている。ダンマにおけるサマーディとは心を鍛え、コントロールする実践的方法である。
そして儒教が「仁」=物事を健やかに育むことを目指すように、「無常という法を理解し、心の平静さを保つ」というゴールをパンニャーは提示してくれている。(パンニャーとは智慧という意味)
わたしはダンマをヴィパッサナー瞑想を通じて学んでいる。歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリが同じくヴィパッサナー瞑想に帰依しているように、ダンマは論語と並び、現代において普遍的な道徳的思想となり得ると思っている。
あらためて思うが、論語やダンマに限らず、聖書もクアルーンも、非暴力不服従運動も、本質的な目指すべき場所に大きな差異がないように感じる。その限りない普遍性には驚かされる。
マニ教や白蓮教とは異なり、戦乱や人口動態の変化といった時代や地域の選別を経て生き残った道徳的思想は、「人間という動物の起源」にアクセスしたのではないだろうか、と思うことがある。
3-3-2、知識や能力を磨くために
自らに定めるべき道徳的思想を定めたら、次は知識や能力を磨く必要がある。
渋沢は本書で、「ただ学問のために学問をしている(p194)」青年の状況に警鐘を鳴らしている。
一方で、こうも言っている。
自分を磨くことと、学問を修めることが相容れないと思うのは、これも大いなる誤解でしかない。p141
知識や理論一辺倒になりがちになっている。p199
渋沢が警鐘を鳴らすように、知識一辺倒にならないように細心の注意を払いつつ、わたしが今取り組もうとしている知識や見識を棚卸ししてみた。
人についての知識/見識
・感情と心理=認知科学/行動経済
・芸術
・文学
社会についての知識/見識
・世界経済
・国際政治
・テクノロジー
渋沢は実践で知識とのバランスを保てと説くが、わたしにとっては仕事こそが「実践」である。
人と社会についての知識や見識を基盤としつつ、仕事に必死に打ち込む。その中で知識を積極的に活用することで、あらたな見識を自らに植え付ける。そのようにして知識と実践のバランスを取りたいと考えている。
わたしは「仕事で役に立つかどうか」という視点で、インプットすべき知識フィルターをかけている。
同時に「すぐに仕事に役に立つスキル・自己啓発・ビジネス書」を「知識」とは積極的に呼ばず、できる限り距離を取ることも心がけている。
必然、わたしの本棚を眺めると「これは本当に仕事の役に立つの?」と疑問に思うことも多い。
しかし起業家のいいところは、「なんでも役に立てられる」ようになることだ。コンサル勤務時代、印象派、言語哲学、半導体サイクルについて学ぶことが仕事に役に立つとは思えなかった。しかし起業家になってからは、全てがつながる気がするのだ。
この「気がする」という実感が重要ではないだろうか。自らが学んだ知識が仕事に活き、それが新たな見識を生む。そしてその先に、社会のために、自分のために、価値のある仕事に取り組むことができる。そんな「気が」すれば、身になる。楽しくなる。
理解することとは、愛好することの深さに及ばない。愛好することは、楽しむ境地の深さに及ばない。 p108
学ぶことと実践することを常につなげる意識があれば、渋沢の懸念した「知識一辺倒で底の浅い虚栄心のために学問をする」人間になってしまうリスクは低減させられるだろう。
ここで重要なのは、あくまで「低減させられる」だけにすぎないことである。
自分の意思の弱さ、誘惑の多さ、渇望の抗いがたさを過小評価してはいけないことをわたしは忘れてはいけない。
3-3-3、理想をもとめ、いかにして続けるか?
おそらく自分を磨くというのには、広い意味がある。精神も、智慧や知識も、身体も、行いもみな向上するよう鍛錬することなのだ。これは青年も老人も、ともにやらなければならない。これが挫折せずにうまく続けられれば、ついには理想の人物のレベルに達することができるのである。 p142
渋沢は身体を鍛錬することについて、ここでしか述べていない。しかしわたしとしては心技体、運動をしっかりして食事は適量を守り、睡眠をきちんと取る習慣を身につけることが自分を磨くためにこの上なく重要であると強く信じている。
なんとまぁやるべきことが多いことだ。道徳律を実践し、知識や見識を磨き、身体を鍛錬する習慣を身につける。これらを実践し、人格を磨き、人生を、社会を、コミュニティを豊かにすること、これもまた「立志」であろう。
これを「挫折せずにうまく続けられれば」、という渋沢から読者への挑戦を見落とすべきではない。
渋沢はよく知っているのであろう。人は本当にすぐ忘れてしまうことを。
自分が大切にしていること、やらなければいけないことは、忙しい日常、せわしなく視界を占める情報に上書きされてしまう。
「うまく続ける」ための工夫や実践こそ、次のステップで私達を待っているのではないか。
4,感想―最初は怒り、そして自らを省みる読書体験
4-1、他人はそうだ。では自分はどうだ?
「日本人の人格は劣化している。「緩やかな衰退」に向かうこの国で、人々はどうすべきか。そうか、人格の回復をすべきだ! 明治維新の気風を思い出せ!」
最初にわたしが本書を読んで強く考えたことは、こういうことだった。「世の中はこうで、こうなるべき」ということである。
しかし読み込むごとに、こう考えた。
「自分はどうで、どうなるべきなのだろうか?」
確かに日本人の人格は劣化している。それはおそらく事実だろう。しかし、人を変えることなどできない。ましてや社会全体の雰囲気を変えるのはもっと難しい。自分を変えるので精一杯なのだ。
それに日本人の人格は確かに劣化しているが、それは力を持つ人々や影響力のある人々、あるいは特定の世代にとどまる気がする。
今の若い人は、団塊の人々よりはるかに礼儀正しい。それに世界と比較しても、段違いに民度が高い。安全で、穏やかな社会を形成している、人々の善良な側面を無視すべきではない。(その善良な側面をもつ人々がもつ集団的な悪意や無意識な差別意識も同時に無視すべきではないが)
「何と比較して」「誰の」人格が劣化しているのか。そこを明らかにしないと、正しい思索とはならない。
その思索を深める前に、発想を変えてみた。
つまり、自らを省み、自分の信仰する道徳律を実践し、人格を磨く努力をすることを自分ができているか?と問い直すことだ。
その問い直しから気がついたことがある。
もし、わたしの競争相手が自らを磨く努力怠る社会であるとしたらどうだろう。わたしが自分を磨く努力を怠らなかったとしたら、起業家としてこれほどの競争優位はないかもしれない。こうした切り口を変えた認知もまた、「自らを磨くことを続ける」ためのモチベーションの一つになるのかもしれない。
4-2、わたしはもしかしたら、間違っていないのかもしれない
本書を読んでいて感じたこと、それは「自分が進んでいる道は間違っていない、かも…?」というちょっとした期待である。
わたしは起業家として、まだまだ実践と実践が足りない。経験が足りない。資金も人も足りていない。
しかし、周りをみると、稼ぐこと、ピッチにでること、投資家を探すこと、従業員を時に使い捨ててでも、火の玉のように前進することが起業家として是とされるような情報ばかりが目に入る。
起業家が仲間を集め、ビジネスアイデアを実現し、資金を調達することと同様、あるいはそれ以上に、自分を磨くための努力というのも重要なのではないか。そう考え、わたしは起業してから、起業家として多少回り道であったとしても、知識を身に着け、身体と心を鍛えるために努力をしてきた。
起業家は市場から、債権者から、あらゆるステークホルダーから結果を求められる。
事業を前に進めることを軽視し、自分を磨くことだけを重視してはいけない。
とはいえ、「自分を磨く」ことを軽視することなく進んできたという点において、自分の起業家としての道はそこまで間違っていないのかも、というちょっとした勇気をもらった。
それでも本書を読んでいて強く気持ちを新たにしたのは、自分を磨くことを「続けること」の重要性と難しさである。
事業が、家庭が、交友関係がどのように変化しても、自ら志したこと、道徳律を実践すること、知識や見識を磨き、身体を鍛錬する習慣を身につけることを生涯続けなくては、最終到達点には到底たどり着けないであろう。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」