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処女作 タルトタタン

下腹部が泣いている

しくしくと疼きながら

この数ヶ月、夜眠る時間を削る日が多く

なんだか軽く躁状態で

“眠らないでよくなればいいのにな”

“眠ってなくても疲れないな”

という思考や体感でいた

しかしそういう日々が長く続かないということはわかっている

でもなんだかこのままずっといけるんじゃないかと思うのだ

毎回 毎回 懲りもせず

私の身体が女じゃなくて男だったら躁鬱だったかもしれないと思う

起きている間の20時間は仕事をしていられる感覚が

ある日、急にしぼんで

そこにあったという気配だけが残る

そして、下腹部の痛み

ああ、今月も巡ってきた

身体のシャットダウン機能

強制的に休まねばならない数日が来た


お腹を手でさすりながら

昨日は長野で友人と会った

自主的に開いているメンタルヘルス講座の打ち合わせだ

久しぶりに会った友人の前のテーブルには

たくさんの紙袋と折詰の箱たちが置いてある

その中には

ルミネ座よしもとのお土産各種(チロルチョコ、クリアファイル、メモ帳)や

飛行機を観に行ったという羽田空港の秋限定のお菓子の下に

白い四角い箱がある

友人に目配せしてから開くと

中には茶色く光った見慣れない丸いものが4つ

なんだかひかえめにたたずんでいた


友人「タルトタタン 処女作だけど」

驚いて目を丸くする私

この友人は、いつもなにか美味しいものを作る

だれかのために

ちょっとしたものでも、お裾分けでもない

特別に作る

失敗だと思えば、何度も作り直して

これまでどれだけ心とお腹を満たしてもらったかわからない

コロナで彼女の居酒屋バイトが無くなった時期は

月1の生きづらさの自助グループに焼き菓子を作って送ってもらった

月餅、どら焼き、フィナンシェ、エンジェルケーキ、ダックワーズ、レモンケーキ・・

私の手作りの域をはるかに超えたお菓子たちが届いた

メンタルヘルスの講座のときにも料理を担当してくれたり

参加者にお菓子を作ってくれたりする

どうしてこんなにも身を粉にして時間をかけて

だれかのために食べ物を作れるんだろう

私には不思議で仕方ない

何度も聞いてみるけれど、納得がいかない

「自分の大切な人が喜んでくれるのが嬉しいから」

と彼女は言う

特定の誰かに食べて喜んでもらいたくて作るのだ

販売したりできるレベルだが、そうするつもりは彼女にはない

友人の働きや作り出したものの価値をつけるのに、
その対価を払うということぐらいしか思い浮かばない私の経験の狭さにうんざりする

そんな友人のタルトタタンは

ほろ甘く、秋そのものを食べているような味だった


少し前に「解放」という題で文章を書いた※

それはまだ表に出ていないが

友人のタルトタタンを食べたら

今日その続きを書きたくなった


私は実家の母に料理を習ったことがない

母はなんだかんだ1人でやってしまう人だった

家が狭いのもあったが、子どもが料理の隙に入り込む余地はなかった

ではどこで料理を覚えたのか

それは

年末年始や夏祭りに山谷でつくった300人分の炊き出しや

バイト先の女性のシェルターでガス釜で炊いたご飯や味噌汁

援農先の農作業の合間のお昼ご飯

友人たちと借りていた一軒家で集まって作る創作ご飯

その時、偶然集まった何人もの人たちと食べるごはんを作る

元々そういう場で覚えた

そう 家庭ではなく 雑多な人たちと

むしろ食べるをあいだに置いて

なにかほかのものを共有したり、交換したりし合う場で

農業と食の思想史を研究している藤原辰史氏曰く

「食べる場所が、ただ食べるための場所になってしまったことによって、食べるという行為が本来持っていた多様な可能性、食べることによって生まれる多様な出会いが失われてしまったのではないか」

「食べる場所は、地域の仕組みの改善から国家転覆の革命まで、大小さまざまな世直しの拠点にもなりうる。世直しに必要な様々なアイディアや文化や道具が集まり、見知らぬ人たちの相談も始まる。」


この章では

「談」という漢字は、「燃え盛る炎のように言葉を交わすという意味」で、
「炎は、飯を炊き、体を温めるだけでなく、心を温め、燃やすために存在する」

と締めくくられる

そうか、私が作りたいご飯は、こういうものだ

そういう場でご飯を作ることを覚えたのだから

家で2人で食べるご飯を作ることにいつまでも情熱をそそげないわけが
これで腑に落ちた

※「解放」をテーマにした文章は10月末に創刊予定の寄稿誌にて

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