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稚戯と雑話の価値

 我々の生活様式は,いっけんして有価値な仕事よりも,いわゆる児戯・稚戯や雑談・雑話などの,いっけんして無価値な行為がその多くを占めるように見える。

 私はこの事態について,前者が応用的な言語活動であるのに対して後者がプリミティブな言語活動だという事情が少なからず寄与していると予感するのである。

 ところで,「雑話」は,例えば

甲:暑いねえ
乙:そうだねえ

という会話がそうである。

 ここでは,乙に『私(甲)は暑がっている』という情報を伝達する意図が甲にはない(言わずとも解る筈だと甲は確信している)と解されているから,より内包的に言えば,コンスタティブな情報伝達の意図が認められない会話を「雑話」と特称するということになる。

 さて,いっけんして無価値な「雑話」がかくも我々の時間を奪うのは,実は「雑話」には価値があるからではないかとおもう。けだしこの純然たる価値は,端的に相手との自然言語の共有率を調べることだと言えよう。

 先に挙げた例で言えば,互いが暑いと感じていることは既に分かっているが,むしろそれだからこそ,そこで「暑いねえ」と呼びかけることで,もし相手がこれに〝正しく〟呼応しないときには,相手との自然言語の共有率の方が疑われるという具合である。

 いざという瞬間に自然言語の齟齬によって障害が生ずる危険性もあるし,日常的な会話においても,それが巨大な軋轢に膨れ上がる危険性もあるから,得てして我々は同じコミュニティにある人との間で用いられる自然言語の共有率を高いものにしておきたいし,高いものであると信頼したいはずである。この欲望は相当に合理的なものであろうと私にはおもわれる。

 簡単に言えば,いっけんして有価値な会話では,自然言語の確立を殆ど前提とすることで情報の共有を志向するのに対して,いっけんして無価値な雑話では,情報の共有を殆ど前提とすることで自然言語の確立を志向するのである。

 忌避や排斥のために雑話を憚ったり,懇意や諂諛のために雑話を試みる者は,いずれも不純なる「雑話」を,否むしろ「雑話」に擬態した別の言語行為を利用せんとしている。

 ところで,児戯・稚戯がかくも我々(殊に字義通り幼児ら)の生活様式を占める雑話と少し似ている(とはいっても,とうぜん似て非なる)。

 けだしこれは「心の内」という言語構造の確からしさを調べたり,この調査結果によってその言語構造を構造化および精緻化するための行為であろう。

 例えば,唯にボールを壁に投げて,返ってきたものをキャッチするという稚戯の繰り返しによって,「ボール」や「壁」或いは「投げ」ることや「返ってくる」こと,更には「キャッチする」ことの意味を構造化および精緻化したり,確度を高めるのである。

 おそらく斯様な稚戯をやる者は,殆どのばあいこの目的を意識していないが(無意識の作用が殆どであろうが),私は稚戯の本懐に言語の構造化を仄見るのである。

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