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遊戯としての進次郎構文
いわゆる〝進次郎構文〟は,トートロジカルな様相を含むとは言いうるにせよ,その本質は,或る(得てしてデジャビュな)場面を以て,通念的に認められる分析命題との不整合な態度を描写してみせることで,彼の分析性の無さを隠伏的に示す遊戯であろう。
「或る(得てしてデジャビュな)場面」(以下 A)と「通念的に認められる分析命題」(以下 B)は,例えば次に列挙する四つのツイートには,それぞれに併記するように対応している。
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B:二人で撮ったものはツーショットである
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B:息を止めることは呼吸を止めることである
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B:農家の営みは,野菜または φ を作ることである
(φ は穀物など,なんでもよい。農家は野菜を作る必要はないとしても,野菜を作って驚かれるような身分ではないということが形式的に表現できていればよい)
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B:1分は60秒である
進次郎氏が A を演ずることで,B に表現される命題がもつ分析性の理解にしくじっていることを暗示する,という様相を創作し(更に共有し)て愉しむことが,こんにち〝進次郎構文〟を利して営まれているあの遊戯の正体であろう。デジャビュなふるまいは普通(コンスタティブにせよパフォーマティブにせよ)何か有意味なことを表現するが,「あの遊戯」は,この「有意味なこと」を分析命題に簒奪させるのである。
さて,本項において B は分析命題に限られているが,素朴には,極めて確度の高い綜合命題によっても問題なく同種の面白みを再現できるようにおもわれる。
さらに,こんにちクワインの仕事によって分析命題と綜合命題の別はその以前よりも暈されたと見る勢力は支配的であり(かくいう私も,分析命題がその言語全体の事情を勘案してその特権を失いうる,という言い方であればこれに首肯する),この事情を踏まえると,進次郎構文の対象を分析命題に限らない方が穏当なように思えてくるかもしれないが,私はこれに異見をもつ。
というのも,「分析命題がその言語全体の事情を勘案してその特権を失いうる」のだとしても,ひっきょう分析命題と綜合命題の別は可能であり,さらに,これらの間には依然として(公理系を形成できるなどの)峻別すべき価値があると認めるからだ。
遊戯としての進次郎構文において,綜合命題をも対象として許してしまえば,「彼の分析性の無さを隠伏的に示す」のではなく『彼の綜合命題についての無知を隠伏的に示す』遊戯としての色を強める。
これではこの遊戯の構造が変わってしまう危殆があるから,こちらは〝進次郎構文モドキ〟と呼び分けて,進次郎構文とは区別した方が無難であろう。
しかして,私は遊戯としての進次郎構文を,「或る(得てしてデジャビュな)場面を以て,通念的に認められる分析命題との不整合な態度を描写してみせることで,彼の分析性の無さを隠伏的に示す遊戯であろう」と考えるのである。
ところで,その遊戯の場に添付される画像に対して大喜利的な機知に富んだ A は,殊に優れた作品を構成しよう。