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VTuber の存在様態
バーチャル YouTuber(ここでは中の人の謂。以下 V と略記する)の愉しみ方は,〝そのアバター(以下 A と略記する)を演ずる V〟という様態(以下 F と略記する)を敢えて無視する態度こそがあたかも倫理に見える他方で,あえて F を揶揄的に暗示するようなユーモアも,V やそのリスナー達に受け入れられているように見える。
いわゆる中の人ネタ一般への非難を見なくなって久しいが,中の人が起こしたスキャンダルへの非難は昨今にも散見される。つまり,先の「あたかも倫理に見える」ものが真に倫理として機能しているのであれば前者は非難されるべきだが,実情は殆どそうなっていない。
例えば,17歳のはずなのにもっとレトロな知識があることを揶揄する視聴者の態度は(節度はあろうが)そのコミュニティにおいて基本的に是認されるし,それどころか,形骸化した倫理を巧みに利した機知はしばしば歓待される。
けだし,この「あたかも倫理に見える」ものは(もしかすると初めから)形骸化していて,むしろ〝「A になり切らねば……」という倫理によって必死で A を演ずる V〟という一つの V の見せ方を我々は愉しむのではなかろうか。
つまり,けっきょく我々は V を V として消費しているのであって,A は V を引き立たせる一つのツールなのではなかろうか。
そうだとすると,「V のスキャンダルを以て V を攻撃するのは愉しみ方を違えている。V は A として見るべきなのだから」旨の批判はあたらない。我々は F を一つの V の演技として愉しむのであるから,この「演技」に反する言動は非難される。
例えば,〝〇〇という A を演ずる V〟の演技が求められているとき,うっかり〇〇の設定に反することを口走ってしまうのは許されても,その V が自由闊達にそれを連呼するようなことは基本的に許されない。
この仮説では「けっきょく我々は V を V として消費している」ので,V には A を演ずる他にも様々なことが求められる。潤羽るしあ氏の起こした〝みーちゃん事件〟は好例で,これは,V の存在は無視すべきものだという倫理においてはほんらい非難されるべき事案ではない。
けっきょく,潤羽るしあ氏のリスナーは、潤羽るしあ(A)氏ではなく〝潤羽るしあ氏の中の人〟(V)を推していたのだと考えると,あの炎上にも説明がつく。
A は V の一つの見せ方なのだと,V もリスナーも暗黙裡に解して愉しんでいるはずである。
しかして,この「節度」にまつわる問い(どこまで中の人ネタが是認されるのか。また,或る程度まではむしろ歓待されるのは何故か。等々)は興味深い問いである。素朴には,F による V の魅力を更に引き立たせるものは認められるし,これが歓待される場面は多そうである。