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生配信のロマンス──なぜ配信者はモテるのか

 こんにち,生配信という営みは我々の生活に急激に馴染むようになってきているとおもう。

 取り急ぎ,この生配信を或る程度の頻度で発信する人を配信者と呼び,或る程度の頻度で受信する人をリスナーと呼ぶことにしよう。とうぜん,「或る程度の頻度」なので曖昧さを含んだ呼び方になるが,配信者という語もリスナーという語も実に然様にして用いられていようし,少なくとも本項の本旨を語るのにあたって特段の障害にはならない。

 さて,私は約10年間に亘ってそれなりの数の配信者とリスナーを観測し,ときには懇意に,ときには対立を彼らとしてきたが,どうも配信者という身分はモテるように見える。然るに,彼らが非配信者に比して高いスペックや魅力的な属性を備えているのかと言えば,特に然様な傾向はないはずである。

 そこで,本項では,なぜ配信者はモテるように見えるのかを考えてみたい。むろん様々な要因が複合的に絡んでいようことは既に予想されるが,素朴には

I そも配信者は非配信者に比して閲覧される機会が多く,結果的にその配信者を気に入った者が常連的なリスナーになり易い
II 配信者がリスナーに知られる(知らせる)部分は,得てして声だけであったり,厳選や加工をされた外貌にとどまるので,リスナーは彼をより魅力的なものだと期待・誤想し易い

等の事情が挙げられる。しかし,本項で私が最も惹かれる事情はこれらではなく,ロマンスの実践(III)である。

 生配信の様相は,女性においても男性においても,しばしばロマンスが欲望されているように見える。して,このロマンスの構造には,概ね次のような類型が目立つ。すなわち,

  1. 大衆から敬われたり慕われる(カーストの高位な)者と,彼と秘密裏に親しくする(ともすると逢瀬する)者

  2. 大衆から忌避されたり揶揄されているが,実は良いところも沢山ある者と,この真相に気付けている数少ない(ないし唯一の)者

  3. 大衆(までいかなくとも構わないが,とかく一定量の集団)を率いて戦う者と,彼(ひいてはその集団)に寄与することで,彼(ひいてはその集団)に認められる者

  4. 社会によって標準化された家族様態*

といったものである。

 とうぜんこれが全てではないが,少なくとも上述した類型は目立っている。さらに,本項の冒頭でも既述したように「様々な要因が複合的に絡んでい」ることは見易く,例えば II によって III のロマンスは夢想し易くなるはずである。

 ところで,上述の議論を受け入れるならば,「信者」や「囲い」と呼ばれる者たちがしばしば周りから病的と評価される程にその信仰対象を守る(囲う)理由は,きっと殆どのばあい,その配信者の精神や名誉そのものを守るためと言うより III のロマンスの構造を守るためと言った方がラディカルになろう。「囲い」とは,まさにその構造を囲うことで自らが身を投じたロマンスを守らんとするのであるから,これは実に言い得て妙である。

* 4. のような家族様態にコンプレックスを感ずる人たちにとって,それは非常にしばしば強烈なロマンスとして羨望されるのであろう。家族的な難儀を抱えた人が,SNS のコミュニティで家族ごっこをやるような事態はかなり多く観測してきた。

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