無数の点が一気に線になる感覚。人生って、本当にドラマだと思う。
うつ病を患った時、自分の人生は終わったと思った。
うつ病発症
何が辛いのかさえ分からないのに、死ぬほど悲しく苦しい。涙が止まらず、自分の感情がコントロールできない。
奈落の底に落ちていくとはこういうことか、と感じながら、深く深く沈んで行く感覚があった。
療養に入ったら楽になるかと思いきや、本格的に病んで行った。
体中にへばりつくような不快感に毎晩の長時間の不眠、止まない自己否定、極度の無気力に苛まれ、全身を掻きむしりたくなる。
先を思うとあらゆる不安が沸き起こり、激しい焦燥感に駆られた。生き地獄としか表現できないような毎日だった。
友人から写真付きの分厚い年賀状が届くと、できるだけ目に入れないように急いで棚にしまった。
自分の運命の輪だけが止まっているように感じた。ただ時間だけが過ぎてゆき、自分の存在が透明になっていくような感覚だった。
どうしてこんなことになったのかと嘆き、全てを恨んで世界が壊れてしまえばいいのにと呪ったこともあった。
当時を振り返ると、二度とあんな思いはごめんだと思うと同時に、あの経験がなかったら、こんなに劇的に自分の人生が動くことはなく、自分の人生の意義や方向を見つけることもできなかっただろうと思うと、やはり何事にも意味があると思わざるを得ない。
闘病生活を脱したきっかけ
闘病生活から這い出るのは、至難の業だった。
症状が落ち着き、医者から寛解だと言われても、回復過程が目に見えないうえ、自分への信頼を完全に失っての、自己否定の日々。
現実逃避からくる無気力状態からの脱出は、不可能に思えた。
そんな頃、父親のがんの再発が判明した。異常な痩せ方を見て気になってはいたが、ずっと見て見ぬフリをしていた。
はっきりと診断が下った時は、ショックだった。「助けてもらいたい時に…」と、父の心配よりも先に自分の先々の不安で頭がいっぱいという有様だった。
その後、セカンドオピニオンを取ったりいろいろな抗がん剤を試したりしたが、全て悪い結果へと繋がっていった。
もう手の施しようがないと病院から見放され、父が自宅に戻ってからは、今までとは違うストレスで気が重くなった。
どんどん弱っていく姿を見て、そんな父親を受け容れられない自分がいた。
ある時友人に言われた。「残り少ない父親との時間を、そんなふうに過ごしていいの?もっと積極的に看護に関わらないと後悔するよ」
この一言で目が覚めた。それから、モルヒネで認知症のようになった父のトイレ介護や薬の管理など、少しずつ取り組むようになった。母と協力しながら一日を回すようになり、時間の感覚が少し戻ってきた。
父の状態はどんどん悪くなり、それにつれ介護の手間も増えていったが、小さな雑用をこなすうち、自分は必要とされ役に立っている、という気持ちが芽生え、仲の悪かった父とも、心の距離を少し詰められた気がした。
父が亡くなる頃には、前よりも心が強くなったと感じられるようになっていた。
仕事復帰へ
何とか仕事復帰したいと、数日間のアルバイトから始め、次に週2~3日のアルバイト、そしてフルタイム勤務へと、長い期間かかってやっと働けるステージへと辿り着いた。
抗うつ剤の副作用からくる激しい便秘の処置として同時に下剤も飲んでいたため、突然の便意に振り回されたり、脳の機能不全からくる情報伝達のトラブルに悩まされた。
感情と表情がうまく繋がらず、ひきつった笑顔でのコミュニケーションになる、簡単な指示なのに理解が追いつかず何をしていいか分からなくなり泣き出してしまうなど、たくさんの歯がゆい思いを味わった。
フルタイム勤務を何とかこなせる自信が付いた頃、私は再上京を決めた。
頼れる人もいない、住むところも仕事もない状態で東京に出るということに、母は猛反対した。
その反対を押し切って出られたことが、自分の精神状態が完全に回復した証拠だったのだと思う。
自分で何とかコントロールしてやっていける、という自信のもと、もう一度一からやり直すと動き始めた。
ブランクが長かったこともあり、仕事はなかなか決まらなかった。
以前何度も紹介を受けた人材紹介会社から、残念ながら貴方にご紹介できるお仕事はございませんというメールを受け取った時は、自分はストック用の持ち駒としても値しないのか、とショックを受けたのを覚えている。
マンションコンシェルジュの仕事との出会い
半年ほど経った頃、運命的な出会いがやってきた。
うつ病経験の次に繋がるシフトチェンジとなったマンションコンシェルジュの仕事との出会いだった。
後から聞いたところによると、既に採用が決まっていた応募者が直前に辞退したため、私が滑り込めたとのことで、前髪しかないという幸運の女神のその前髪を、私はきっとあの時、しっかり掴んだのだと思う。
本格的に体調が戻った後の久しぶりのフルタイム就業で、何もかもが新鮮に映ったことを覚えている。
田舎のサラリーマン家庭出身の私が、超富裕層の方々に対して何ができるのかと思ったが、次第に肌で感じるようになった。
世の中で本当に求められていることは、人間の本質に関わる根源的なもので、お金で買えるとは保証できないものなんだと思うようになった。
年齢や資産の多寡にかかわらず、人が求めてやまないのは、人としての尊厳を守りたい、大切にされたいという欲求で、へりくだる姿勢ではない本当の敬意、心からの関心や寄り添い、さりげない配慮、そういったものが人の心を動かす。
それに気づいてから、自分には特別な才能はないけれど、自分が持つ全てを投入して、皆さんの役に立てるよう頑張ってみよう、と仕事に打ち込むようになった。
面倒なトラブルの時こそ役に立って信頼を築くチャンス、と積極的に解決に関わり、外国人の入居者も多い環境を最大限に生かすべく、英語の勉強も続けた。
部屋ごとに異なる間取りや設備、設置家電を覚えるため、“空室に入る度に何か一つ覚えて戻る”というルールを自分に課した。
これには驚くほどの効果があり、入居者からの問合せにも、どこのどういう部品の話をしているのか、すぐに分かるまでになった。
“コツコツ”の威力を生まれて初めて実感した私は、すぐに結果が出る面白さに目覚め、仕事にのめり込んだ。
半年足らずで先輩よりも知識が増え、話が早いと入居者だけでなく業者さんからも情報が自分に集まってくるようになった。
オーナーサイドへ詳細を報告する際に、「このマンションの生き字引に代わります」と上司から電話を回された時は、自分はこんなところまで到達できたのか、と感慨深いものがあった。
劇的な変化
精神疾患を持つ人達に何かできないか、と就労支援施設でボランティアを始めるなど、プライベートも精力的に活動した。
これまで取りこぼしてきた大切なことを拾い直すように、数々のセミナーやイベントに参加したり、多くの人に会い、いろんな本も読むようになった。
あらゆることを貪欲に学び、一日一日を噛みしめるように過ごしていたところ、ある時から、経験したことのない感覚を覚えるようになった。
目の前にある無数の点が一気にバーッと線になっていくようで、自分でも着いていけないほどのスピードで自分が変化していくことが分かり、本当に驚いた。
人からも、ずいぶん変わったが何かあったのかとか、何をしたらそんなふうに変わったのか、など聞かれるようになり、客観的に見ても変化があったことが分かった。
振り返って考えると、自分が別人のように変われたのは、それまではっきり決めかねていた、“自分はどうありたいか”とか“残りの人生をどう生きていきたいか”といったことが、少しずつ明確になり、それを実践するためにはどういう障害やリスクがあるかも考えたうえで、それでも自分はその道を行く!と、しっかり決めたからではないかと思う。
そう決めてからは、より自分の内面に意識を向け、自分の弱さや狡さと向き合うようになったと感じる。
そういう日々を過ごすうち、この人に出会えたということは、自分が今進んでいる方向は間違っていないと確信できるようなパートナーに巡り合えた。
自分で行動を起こせば人生の輪が回り出し、次々と動いていくんだと実感するようになった。信じられないご縁に恵まれたことにとにかく感謝し、これからも精進すると決めた。
今後の抱負
これまで長い間目を逸らしてきたことに一つ一つ決着をつけながらの日々は、最初は修行のようだったが、最近は、自分の中のウェットだった部分が少しずつ乾き、軽やかになった気がしている。
どん底状態だったうつ病当時の自分を思うと、別世界にいるようで不思議な感覚を覚えるが、一度は投げ出しそうになった人生を、何か見えない力に背中を押され、「やり直せ」「自分の使命を果たせ」と言われたように感じる。
世間で言われる、所謂“成功”を手にしている訳では全くないし、自分の目指す将来の希望象にはまだまだ道半ばだけれど、“自分の強みを使い尽くして、楽しみながら人や社会の役に立つこと”という生き方を、これからも貫いていきたいと思っている。
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