表現する、ということとの出会い - その2
前回、それまでいたエンターテイメント寄りな世界で違和感と行き詰まりを感じていた私が、より表現することに重きを置いた踊りと出会った、というところまで書かせていただきました。
コンテンポラリーダンス
コンテンポラリーとは完全なる初めまして、というわけではなかったのですが、その新しい扉と本当に向き合おうと思ったとき、私はそんなに若くもなかった。
本当に岐路だと思いました。今、踏み出すか。すべてを諦めるか。演者としては踊りから離れるべきか、という意味も含めて。
大げさなようで、私にとっては切実でした。というのも、ダンサーには身体の限界がきっとあるからです。たとえば音楽ならば、絵ならば、年齢を重ねても続けていけるのかもしれない。けれど、踊り手として本気でその時々の最高を求めて舞台に立とうとするのであれば、身体にはいつか限界が来る。もしかしたら、そう遠くない未来にも。
それは、アスリートと同じなのかもしれません。そもそも踊りというのは形に残らないもので、とても刹那的な表現の形ではあるけれど、人生においても一時的にしか触れていられないもの。だからこその美しさや、観てくださる方に響くものがあると思います。けれど同時にやはり有限でもある。続けていけたとしても、何かしらの制限の中で踊ることになる。
今しかない、と思いました。
もう一度奮起するなら。自分を変えていこうと思うなら。
そうしてその世界に少しずつ足を踏み入れたとき、まず踊ることそれ自体への意識が変わりました。これまでの私は「振付を覚え、または作り、踊っていただけ」だったのだと。
このことを言葉として表すのは難しいのですが、より身体そのものと、その整え方、運び方、決まった形としての振付を追うことではなく、そこに至る過程や周囲の空間をも意識することが表現であるということ。私が今まで踊っていた感覚では、言い方は悪いかもしれないけれど、スポーツでしかなかったということ。そこに表現としての「余白」はなかったんです。
エンターテイメントは言葉の通り、その形は触れた人を楽しませることに重きが置かれたものであると思います。誰にでもわかりやすく、受け取りやすく、満足感も得やすい。けれど、よりアートに寄っていけばいくほど、個人的な主観なのですが「余白」が生まれる。考えさせる、感じさせるすきまのようなもの。
私は、そういう形が好きだったんだ。求めていたんだ、ということに、今さらのように気づきました。それに気づいたときは、エンターテイメントの世界に身を置くことに、そこで結果を求めようとしたことに感じていた違和感の正体に行き当たったような思いでした。
本当の自分は。
ここから、自分と深く向き合い、手繰り寄せるような作業が始まりました。
結局のところ、本来の自分が、素の自分がどういう人間で何が好きだったのか。散らばった糸を手繰り寄せる、自分史を辿るような作業を行うことでしか、自分のいるべき場所を定めることはできない。
もういい大人のくせに、本当に遠回りだし、不器用で面倒くさいやつだなあと他人事のように自分を思います。だから初めからひとつの道を貫いている方を見ていると、憧れと絶望にも近いものを同時に抱くこともあります。その強さが、羨ましい。
でも、私は私でしかない。これまでもこれからも、ここまで来てしまったらこの自分と上手に付き合っていくしかないんです。だったら、心も身体も喜べる場所を自分に見つけてあげよう。今は、やっと、そう思えるようになりました。
その自分を探る過程の中で、言葉の存在をとくに強く意識するようになりました。それが詩と身体という今に繋がってくるのですが、それまでの私は言葉や、詩や、本を読むのが好きだということ自体を区別しようとしていたところがありました。
ダンサーとして活動する自分と、素の自分の区別。これは趣味であり、ダンサー仲間などの周囲の人が知らなくていいもの。と、言葉を読み、たまに書き、どこかで求める自分を内に押し込めておく。エンターテイメントにこれは必要がないから。関係がないから。周囲に引かれそうだな、という懸念もありました。
オリジナリティーは、自分の中に。
仕事の自分と、素の自分。
踊りはもちろん、好きなものも、聴く音楽すらも違う。擬似二重人格なの? と思えるような区別が、自分を無駄に生きづらくしていたような気もします。もちろん私の性格もあるんでしょうけれど、なんだか色々遠回り。私らしいといえばらしいかもしれません(苦笑)。
コンテンポラリーに出会い、見えるものが変わり、私の世界がなんとなく変わり始めて、まるでセルフカウンセリングでもしているようでしたが、そうして拾い上げた言葉たちをこのnoteに記してみよう思いました。
コンテンポラリーの世界に於いては「詩の朗読とダンス」は既存の形ではあるのですが、私は私の言葉と詩と身体の世界を求めて、もう一度踊りとも向き合おうと思えたとき、やっと自分が自然と「好き」と思えるものがすべて繋がったと思えました。
それが、私が詩という表現を選んだ理由。踊り、書き、詠もうと思った理由。そして、ここにいる理由です。
それがオリジナリティーになるのかどうなのか。新しいものが広まっていくこの世界では未知ではありますが、まずは真摯に取り組んでみようと思います。それに、元々私が培ってきたストリートダンスで得た身体の使い方。それを完全に捨てるのではなく、生かす。今度は、ただ振付を踊ることに終始しない形で。このことも、自分を辿る中で思い至ったことでした。
オリジナリティーは、自分の中に。
決して個性的ではないと思っている私にも、活路はあったのかもしれない。それは自分の中にずっと眠っていたのかもしれない。より表現するということに、やってみたかったことに、少しは寄り添えるようになっていけるかもしれない。自分自身ともう少し対話しながら、私の形をこれからも求めていきたいと思います。
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ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。思いのままに綴りすぎてしまい、あまりまとまりがなく恐縮です…。
noterの皆さんは本当に素敵な作り手さんばかりで、たくさんの刺激や感動をいただいています。まだ出会っていない多くの方との今後の出会いを楽しみに、細々とでも活動を続けていこうと思います。
今後ともどうぞ宜しくお願いいたします!
nami naito
Photo by 龍-tatsu-
公演『すきま荘〜ただしい私はどこにいるんでしょう』より