そんなふうに強くはなれないから

私が、どうしようもなく惹かれてしまうひとがいる。
正確には、憧れなんだと思う。

小心者なので基本的には優しい人が好きではあるけれど、自分を強く強く貫いている(少なくとも私にはそう見える)ひとに、どうしようもなく焦がれてしまうことが多々あるのです。

意に介さないというのが、そういうひとたちに私が見る強さのひとつ。他の誰が何を言おうが、何を思われようが、それは意に介さない。横文字的にいうと "Not my business." というところでしょうか。彼ら彼女らが真っ直ぐ見つめているのは、常に自分の中心であったり、そこから溢れ、もしくはもれ出てくる声のようなもの。その声の出所に、真面目であること。

かといって他を迎合しないわけでは決してないその強さは、だからこそ芯が通っていて無駄が削ぎ落とされ、ぶれないからこそとても静かだ。停止しているようにすら見えるコマの軸のように。

そしてもうひとつ。そういった強さの奥に覗くものがある。

生み出したものが作品であれ、意思であれ、言葉であれ、その子をいとおしむような感情がそこにはあるように思う。それは結局、自分自身への肯定に由来するのではないかな、と思ったりもする。完全なる肯定でなくても、自身のやれること、そこから派生する今なすべきことを判っていて、かつ愛をもって向き合える力がある。

愛があればすべてまるく収まる、というような博愛主義に走るつもりは私の性格上まったくと言っていいほどないのですが(苦笑)、私はすぐ揺らいでしまうから、そんなふうに強くいられないから、自分にないものを間近で感じてしまうとどうしても「ああ、いいなあ」とすぐほだされてしまうわけで。単純にミーハーなのかもしれません。ちなみにミーハーは否定できない…。

ただ、そういうひとたちから生まれてくる、紡ぎ出される言葉はやはりとても魅力的。世界を見つめる目が独特で、鋭かったり、重かったり、透明であったり様々だけれど、そこから何かを受け取らずにはいられない捉え方や表現をくれることが多いのです。

最近、詩人の最果タヒさんの作品に出会い、興味を持ったことからエッセイ『きみの言い訳は最高の芸術』を読んでみたのですが、(良い意味で)不思議な、私にはない感覚の方だなと思ったのと同時に、こういう風に物事を捉えて生きていたらなんだか色々救われることがあるのかもしれない、なんて例によってちょっとした憧れの気持ちと共に思ったことがあり。ご興味のある方は是非読んでみてください。この言葉を紡ぐひとが、どういう考え方や感覚を持っているのか。そういう部分が垣間見えるような気がするから、エッセイって割と好きです。

ともあれ、そんな憧れる強いひとたちを見ていて、そのときの私は自分に足りないものにも気づいた気持ちでいました。けれど今思い直すと、足りないとわかったから求める、という回答はもしかしたら少し違うのかなと。

私はやっぱり、そんな世界を切り裂くような独特の感性も持っていなければ、これから理想的にぶっちぎりで強くなる!ということなんてできないと思うのです。それは人格や性格が変わりでもしない限り無理かなと。ただ、無駄を削ぎ落としていくことはきっとできる(ような気がする)。シンプル・イズ・ザ・ベスト。といって、シンプルが一番難しいのだけれど。

言葉も、踊りも、そうしてぶれないコマを目指す日々は続くようです。いつか私も憧れられる側の人間になりたい、なんて思うわけではなく、自分が焦がれてしまうひとたちの感覚に近いところで世界を見てみたい。そんな憧れの気持ちが、表現を続けていく原動力なのかもしれません。

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