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動物が「死亡」? 記者ハンドブックと「死んだオウム」

ペットロスの記事で。動物園の記事で。あるいは競走馬の記事で。

例の単語に出くわします。

その度にこう思うのです。「さて、どうするかな」と。

動物に死亡は使わない。校閲を含め、新聞記者として歩み始めた人が聞いてまず「え、そうなの!?」と驚くと思われる記事の取り決めのひとつです。


『記者ハンドブック 第14版』

近い表現として、「亡くなる」も動物で使うことを避けています。「パンダが亡くなった」と言われると、「死ぬ」よりも丁寧で婉曲的なニュアンスがある分、「死亡」よりも違和感は強いかもしれません。

新聞各社がよりどころとしている日本新聞協会の『新聞用語集』で「原則として動物の場合には使わない」と定めていることもあり、この「死亡」の取り決めは共同通信社の『記者ハンドブック』を含め各新聞社の手引でも広く採られています。広辞苑や三省堂国語辞典をはじめ多くの辞書も「(人が)死ぬこと」と規定しています。

ただ、この「死亡」や「亡くなる」という表現は日ごろ動物と共に在る動物園や水族館、あるいは日本中央競馬会(JRA)などでは日常的に使用されています。

「赤ちゃんベルーガの死亡について」(名古屋港水族館、2023年6月12日)

「ハーツクライが死亡」(JRA、2023年3月10日)

「コツメカワウソ『シシマル』が亡くなりました」(神戸市立王子動物園、2023年10月2日)

新聞・放送のベテラン陣が編んだ『マスコミ用語担当者がつくった 使える!用字用語辞典』(三省堂、2020年)でも「死亡」や「亡くなる」は動物には使わないと定めていますが、「昨今のペットブームで、親しみを込めて動物にも『死亡』を使うケースが増えてきた」などと留保もついています。

『記者ハンドブック』の姉妹版ともいうべき1989年の『言葉のハンドブック』(共同通信社)でも既に、動物に「死亡」を使う風潮が紹介されています。犬や猫も最近は「コンパニオンアニマル」(注・家族としての動物)なのである、とやや皮肉まじりの体です。

ただこの「死亡」の用法はさらに古く、上野動物園のパンダ・ランラン(1979年9月)や競走馬・トキノミノル(1951年6月)の死を報じた際にも新聞での使用例があり、もはや「昨今」どころでもないようです。

とはいえ「使わない」と書かれている以上、新聞校閲としてはお伺いは立てねばなりません。こうなると校閲としては思案のしどころ。丸投げするより、なんとかうまいこと代わる言葉をひねり出したいものです。

以下は実際にあった例ではなく、架空のやりとりです。こんなケースを想定してみるとしましょう。

記事に「死亡したゾウの写真が園内に飾られた」という一文が仮にあったとします。さて、どうしましょう。「死んだゾウの写真が……」にしてもよいのですが、ちょっと身もふたもない印象になります。「亡くなった」は使えない。「世を去ったゾウ」。はまらない。「在りし日の」。おおげさか。「生前の」。動物にも使っていいのかな。うーん。

なお、この問題で苦慮するのは見出しをつける整理記者も同じ。動物園の人気者の死を受け、しばしば見られるのは「天国へ」。極楽浄土じゃなくて? 動物も天国行けるの? などという疑問はいったん脇に置きましょう。婉曲に示した「安らかに」や競走馬を指して「死す」とした例もあります。

整理記者の工夫の産物

こうやってずらずら死の単語を並べているうちに、邪念も脳裏をよぎります。まるで「死んだオウム」だな、と。モンティ・パイソンの。

1969年結成の英国のコメディーグループ、モンティ・パイソンの代表作であるコントのことです。買ったオウムが死んでいたと抗議にやって来る男(ジョン・クリーズ)に対し、ペットショップの店員(マイケル・ペイリン)は「休んでいるだけだ」「ホームシックかも」などと言を左右になかなか認めようとしません。とうとう我慢の限界に達した男は店員に連呼します。

ところどころ意訳してしまいましたが、死の表現の多様さは洋の東西を問わないことがお分かりいただけるのではないでしょうか。

さらに言えば、天皇ならば崩御(ほうぎょ)、皇族なら薨去(こうきょ)。仏教の高僧なら入滅(にゅうめつ)や遷化(せんげ)、キリスト教徒なら帰天(きてん)や召天(しょうてん)、孔子の死を指しては獲麟(かくりん)――など特定の用語もあります。獲麟は臨終そのものを指すこともありますが、現代の新聞記事に現れる機会は限りなくゼロに近いでしょう。

また、新たに生まれた言葉として、ペットの死を指す「虹の橋を渡る」という語もあります。海外の詩に由来し、日本ではここ2、30年の間に広まっていったようです。中日新聞では投書で散見され、記事で使われた例もありますが、「5月に虹の橋を渡ったミケは……」などと新聞で注釈なく用いるにはまだ至っていないようです。

分かりやすくやさしい文章で書く」を原則とする新聞というメディアの性質上、無数にある死にまつわる語彙のうち、頻出する表現はごく一部に限られます。たとえるならば記者ハンドブックで区画された近海で泳ぐようなものであり、遥かな日本語の海はその先の先まで広がっているのです。

そうだそうだ、先のゾウの記事の直しを仮に出すとするならばどうしましょうか。ひとまずデスクに相談に行くことにします。「死んだゾウ」か「生前のゾウ」かなあ。なるほど、と引き取ったデスクは突如ひらめいたように言います。

「そもそも、これって遺影ですよね? ゾウの遺影にしましょう!」

エッ。

い‐えい【遺影】ヰ‥
故人の肖像・写真。「―を飾る」

『広辞苑 第七版』

「動物にも使っていいよ」なんて丁寧に書いてくれている辞書はないでしょう。しかし、その死を皆で悼むために掲げられている、元気に鼻を振り上げ芸をしている往時の姿を写したゾウの写真、それは遺影以外の何であるのか。動物だから遺影でないなどと言えるのか。

もうもうと湧いた考えがまとまらないまま、ぼんやりとこう返すよりありません。

「あ、ハイ」

「近海」などと書きましたが、誰もが知る平易な言葉でさえ、たちどころに足元がもろもろと崩れて沈み込んでいくような感覚を覚えることが幾度もあります。なぜ「遺影」が良くて「亡くなる」は避けるのか。「生前」は動物にも用いることができるのか、できないのならば、その理由は何なのか。

「使ってもよい」「使ってはならない」など用法の可否について考え始めると、たちまち用語集や辞書の外へと抜け出てしまいます。そんな中で動物の「死亡」に指摘を出すのは、我々が準拠する『記者ハンドブック』で使わないと書いてある、というハッキリした取っかかりがあるから。考えだすと果てしのない問題を「使わない」と簡潔に定めている『記者ハンドブック』などの用語集は、時に言葉の海で溺れるのを防ぐための浮輪にもなるのです。

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