誰に向けて書いているのか?どうすれば誰も傷つかないのか?
ライターになったのは2018年。
2024年で7年目を迎えた。正直、ここまで継続できるとは思っていなかったので、自分で自分を褒めたい。
とはいえ、ライターをやめようかなと思ったことは何度となくある。
・体調を崩して、クライアントに迷惑をかけてしまったとき
・頑張っても収入が増えず、限界を感じたとき
・企画が思い浮かばないとき
・記事を批判されたとき
などなど、数え上げたらキリがない。
でも、書くことが好きで、書いているときは楽しいので、やめることはできなかった。執筆中毒とでも命名しておこうかな(笑)
なかでも、批判されたときが一番堪えた。
というわけで、今回はそもそも自分に「書く覚悟と責任、勇気」はあったのか?あるのか?いう話をしようと思う。
ペルソナの設定は大切ではあるけれど…
ライターの仕事でも個人ブログでも「ペルソナ」を設定して記事を執筆する。それが「刺さる記事」になるからだ。
これが定説とされている。
いやはや、ごもっとも!な話ではあるんだけど…
やっぱりさ、気になるわけよ。「人の目」というものが。
ペルソナに向けて書いたものは、ペルソナにしか刺さらない。
でも、
ライターだからなのか、性格の問題なのか、こんな考えが頭をよぎる。
ただ、考えすぎてしまったら、もうなにも書けない。書くのが怖くなってしまう。
炎上を引き起こした話
そして、その不安が現実となる出来事が起きた。
いわゆる「炎上」である。
炎上なんて、挑発的な記事でも書かない限り、自分には関係ないと思っていた。
わたしの文章は、読んでくださった方から「わかりやすい」「読みやすい」「すぐに実行してみたくなる」と言ってもらえることが多い。
手前味噌だけど、自分でもそう思う。だって、そこを意識して書いているから。
その一方で、読みやすすぎてなにも残らないのでは?という不安も少なからずある。
以前に書いたnote『「読みやすさ」ってなんだろう?』での出来事から4年経ったいまでも、そう感じている。
さて、炎上の話。
それは、片付けコラムニストとして大手主婦系メディアでよく記事を書いていた頃のこと。
大手なだけに、Yahoo!ニュースに掲載されることは何度となくあった。
何人ものライター仲間から
「心の平和のために、ヤフコメだけは読まないほうがいい」
と忠告されていた。
だから、そういうことなんだろう。と、ヤフコメを見ることはなるべく避けていた。
たまに目にする機会はあったけれど、コメント数は少なく、むしろ好意的なものが多かったと記憶している。
そこに油断があったのかもしれない。
たまたま自分の記事を見つけたときに、うっかりYahoo!ニュースのコメントを読んでしまったのだ。
600以上もついたヤフコメ
なんのこともない、いつも書いているような片付けの記事である。
それなのに600以上ものコメントがついていた。
恐る恐る読み始めると、好意的なものよりも「むしろ言いがかりでは?」と思うようなコメントのほうが多い。
「なぜ、こんなことに?」と思いながらも、保身のために途中でコメントを読むのをやめた。
言葉は刃だ。時として簡単に人を傷つける。そのことを思い知らされた。
心ないコメントにわたしも傷ついたけれども、わたしの記事を読んで傷ついた人もいるのかもしれない。
ショックは計り知れなかった。書くのが怖いとさえ思った。
まだまだ自分が公に記事を書いていることに対する「覚悟」が足りないことに気づかされた。
コメントの一部から感じたこと
けれども、冷静になって、公開された記事の原稿を読み直してみると…
わたしがもう少し配慮ある書き方をしていたら、こんなことにはならなかったのでは?と思われる箇所を見つけた。ペルソナも曖昧で「こういう人に当てはまる」と明言していない。
大手のメディアで記名記事を書くことが増え、人気記事を書くことに慣れ、自分自身、思い上がっていたんだと思う。
「ヤフコメは民度がね…」とよく言われるが、気づきもあったので、あのタイミングでヤフコメを読んだのは、かえってよかったのかもしれない。
メディアの記事は、ブログやnoteと違い、校了してしまったら修正ができない。書く側の「責任」を感じた出来事だった。
この出来事があってから、記事を執筆するときの言葉選びには、それまで以上にものすごく慎重になった。
誰に向けて書いているのかも、できるだけ明記するようにしている。
誰もが好感を持つ文章なんてない
わたしは一般向けのライティング講座を月に2回開催している。
そのときの受講生の一人にこんな質問をされた。
正直、答えようがなかった。だって、そんな文章は存在しないから。
あったとしても、誰からも好かれようとする八方美人な文章に魅力を感じる人はほとんどいないだろう。
だから、わたしはこう答えた。
炎上は怖い。自分の文章で誰かを傷つけてしまうのも怖い。
でも、伝えたい人に届けたい。
それならば、もう覚悟を決めて書くしかないのだ。
もちろん表現に気を配るのは当たり前のことではあるけれど、考えすぎたら進まない。だから自分のなかでOKを出すまでのルールを設定するのがいいんじゃないかなと思っている。
ライターとして誰かの目に触れるものをこの世に出す以上は、ある程度は批判される覚悟はしておこう。そして、出したものに対する責任を持つことは忘れずにいよう。
そんなことを思いながら、今日も私はnoteを書いている。
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