紙谷惠子歌集 :2/5 …スパンコールのストールを…+ 編集あとがき
我:23首 母:6首 姉:13首 夢:6首 旅:9首 君:12首
我
白壁に望み抱いて新しい
カレンダー掛け胸弾み出し
今日は晴れ言い切る自信我にあり
高取山を友とし幾年
我が椅子に座るリハビリ色付きし
ベランダ景色眺めて楽し
この腕輪震災の日につけたまま
早5年経てお守りと化す
早春にアインシュタイン知りたくて
本読み理解苦しむも楽し
友達のメール開けては打ち返し
春のひととき退屈しのぎ
梅雨空にふるてつさんのコンガ聞き
湿気た心作動し始め
何かしら成果が欲しい水無月は
心儚くカレンダー見て
面白い形のかぼちゃ贈られて
絵筆持ちたく持てぬ苛立ち
我生まれ初めてできた物もらい
秋に笑われ鏡も笑い
10年の年月流れ今気づく
我もPTSD震災記念日
ついてくる人もいた我が黒髪に
鏡見るたび毛染めに迷う
炊き立ての七草粥に猫舌の
われは手早く氷ひとつぶ
刻々と変わる茜の空描く
人と並んで我は詩を詠む
浮き雲をベッドの上で眺めつつ
恩師のモデル秋の午後かな
恩師描く我が肖像画展示され
見にゆきたいが冬空ではと
恩師描く我が肖像画展示され
画面の我は薔薇の枕を
ティファニーのベビースプーン文字刻み
姪の双子に幸多かれと
この葉月スパンコールのストールを
夜風に任せ身に纏いたい
アルバムのやさしく過ぎたわが時を
ママンに見せて思い出話
日曜日電話数本客一人
買い出し行きてもう日は終わり
面識のない来客と向かい合い
話はとぎれ冬空眺む
目の前に百年前のオルゴール
故人の歓喜我も味わう
母
広島で母の納骨行われ
紫陽花神戸にひとり残され
亡き母といかなごを炊き味比べ
我砂糖減母甘辛く
いかなごを煮しめる匂いどこからか
我釜揚げのシンプル好む
母の味追いかけたくてヘルパーの
手を借りながら糠床作り
同じ日に生まれし妹の命日は
毎年暑く今朝から夏日
ぬか床を友からもらい育てるか
亡き母いれば目を細めるや
姉
紅白のバラ開くほど品位増し
還暦の姉六十路に見えず
目がさえて空白む4時睡魔来て
6時に姉を今朝も起さじ
大丸のハーブ売り場でバラを買い
ローズティーにして姉と愉しむ
気の利かぬ姉鏡持ちほら見よと
瘦せきった身を我に我見せ
とろろ汁手早く作り昼ごはん
得意気な姉我に食べさせ
手のシミを保母の名誉と姉は云い
一息ついて掌を陽にかざし
真夜中に苦しくなりて爆睡の
姉を起こそう狂言もちい
開けるまで胸がときめく福袋
今年は買えて姉はにこやか
知らぬ間に枝付き柿に顔を描き
悪戯置いて姉キッチンへ
掃除機を今朝も杉板のごとく置き
またいで歩く姉は汗かき
久しぶり姉はスーツに着替えてる
辞令受けてどこに赴任か
境内のラジオ体操流れ来て
秘かに姉がからだ動かし
ドアを開け開放感に姉は満ち
朝の光と笑み残す秋
夢
文月も座椅子に座りタオル抱き
又2時間をひとり夢想す
真夜中に氷一粒口に入れ
思いめぐらし夜明けを待って
巻き寿司を南南東に向きかじり
黙しながらも笑いこみあげ
薄紙に包まれし桃開くまで
香りが我をおとぎの国へ
従姉よりプレゼントだとトナカイの
モビール届き北欧夢見る
宝くじ大晦日まで我が夢を
無限大まで膨らませいく
旅
むかごめし初めて食べた一人旅
北陸の地を思い出す秋
地図の上人差し指と中指で
世界を歩き冒険をする
我日毎夕陽眺めてワイキキに
旅する望み棄てはしないと
秋に行き放っておいた旅荷物
片付けるなとハワイが誘う
ハワイアンキルトに惹かれ持ち帰り
無数の縫目思いは何か
南島のペーパードールを着せ替える
日曜朝の隙間の時に
土曜午後ヘルパー去りてウクレレを
爪弾く姉にハワイを想う
オアフ着き地味な身なりが恥ずかしく
髪に花さしワイキキ散歩
二月末独身四人ハワイ行き
日焼け気になり水着は持たず
君
君からの一句メールが励ましに
気の力湧く神無月夜に
君が着たJNのジャケットに袖通し
絵を描くときに着たのはいつか
ブローチに君が刻んだ頭文字
贈られし時に気づけばよかった
君の持つ我が手づくりの煙草入れ
二十余年の汗が染み込み
笹の枝に我が手織りし布拡げ
君の再来願いは一つ
初夏来ても個展の知らせ君からは
望めぬものと今更気づき
初夏間近君がいたなら案内状
届きし時と絵を見て想う
退院後4年目迎え感謝込め
バラミラクルを君に贈らん
義理チョコのお返し届き春うらら
本命の君せめて電話を
君撮りし桜の花はどんな華
胸弾ませて現像を待つ
青葉見てここリビングで盆栽の
桜を君と見たいと思う
高原に昼間失くしたサングラス
我が為探す月光の君
編集あとがき
私は、紙谷惠子さんとは、身体障害者と健常者で構成される「わかばの会」で知り合いました。親交を深めるようになったのは、惠子さんの症状が徐々に進行し、自分で食事を摂取出来なくなった頃からです。
1995年の阪神・淡路大震災後、母親を亡くされ、お姉様の美智子さんも仕事をされていましたので、昼間、介助する方が必要な状況でした。しかし、その頃はまだ、介護保険制度ができていませんでしたので、私にも協力要請がありました。今、考えれば、この頃から『自宅で、生きる』という恵子さんの意志は、強かったのだと思います。
紙谷さん姉妹は、私にはない色を持った方々でしたので、私の世界を拡げてくれる存在でした。1997年2月(ハナウマ湾、夜のクルーズ船)、1999年9月(動・植物園)、2000年11月(バスに乗り街に出かけ、買い物等々)と、3回のハワイ旅行を楽しみました。歌集のハワイでの写真は、3回目に行った時のものです。
惠子さんは、2015年10月頃には、短歌集の出版を考えられ、準備をされていたようです。しかし、色々な事情でそれが叶わないまま時は過ぎ、2018年12月7日に昇天されました。その後、お姉様の美智子さんは、出版を切に願っていましたが、2019年から続く新型コロナウィルス感染拡大禍の中、2020年2月に末期の癌と診断され、2021年4月16日には、妹さんのもとへ旅立たれてしまいました。
美智子さんの最期の願いを電話で直接耳にした私は、何とかして願いを叶えられないかと思い、紙谷さんの姪の井口様、惠子さんが肢体不自由児協会で働いておられた時に、惠子さんと一緒にボランティア活動をされていた学生グループの皆様に、協力を依頼しました。2015年には、すでに460以上の惠子さんの短歌をパソコンに入力し直し、分類やタイトル等を考え、ご尽力いただいていた、惠子さんの恩師である徳永様の案を基本として、私たちは、製本化のための検討をしていきました。
惠子さんは、脳性麻痺に加えてALS(筋萎縮性側索硬化症)になられた後も、自分の生について真剣に向き合い、果敢に挑戦し、創作活動等をされて作品を世に残されました。短歌集には、写真や惠子さんの油絵・木版等の一部の作品を掲載し、短歌のイメージを邪魔しない程度にイラストを挿入していただけないか等々、無理難題を友月書房の横井様にはお願いし、ご苦労をおかけしました。お蔭様で念願の出版に至り、私たちは、大変嬉しく、安堵しています。改めまして、心より感謝申し上げます。
最後に、遺作になってしまいましたが、惠子さん、美智子さんが、生前、お世話になった方々に、感謝を込めて、ここに惠子さんの短歌集を謹呈いたします。
2021年12月
編集者: 徳永幸子、紙谷美智子、井口貴子、
KSG(神戸大学ソーシャルサービスグループ)の友人5人、
原 京子
編集あとがき 原 京子
WEB版編集あとがき
2023年正月、KSGのメンバーから紙谷さんにつづいてコロナ禍のなかお姉様も昇天なさって、遺作の短歌集ができたとのお知らせをいただいて、1部頂戴しました。
紙谷さんのリビングによく集まってた5人も手伝われたそうで、私もお悔やみにも伺わず暖かいお心を何度もいただいたままだったことを思い出しました。ほかのKSGメンバーの噂もきいたりして私たちのサロンでもありました。
症状が厳しくなってもできる範囲で芸術活動を続けられ、お姉さまも保育士のお仕事と介 護を全うされ、素敵な想い出を多くの人の心に遺されたのは、いろんなハンディーを持って 生きているすべての人に共感できる生き方ではないでしょうか。
彼女の作品は、その場の輝きを写生しているとこの歌集に感銘しました。
WEB本にして多くの方にこの本をご覧いただきたいとこの作業をかって出ました。
ご遺族の井口さんにご了解をいただき、うれしいと言っていただきました。
人徳高く賢明な紙谷さんとお姉さまと、お二人を心に生き続けている皆様方に感謝を込めて。
こちく
(なお、タイトル作品は「亥」年の年賀状かと思いますが、「女人」と読んで歌集タイトルにされたようなので、それいいな、と。彼女らしい品格ある作品。 こちく 注)
ご覧くださってありがとうございます。
● 紙谷惠子歌集(全5ページ)● はこちらからhttps://note.com/kotiku/m/m64dd26ef5b52