《和歌日記》2021年1月2日
2歳の娘が熱を出した。
年末年始に遊びすぎた疲れが出たのだろうが、時節柄楽観視はできない。父親として、また世間に生きる者の1人として誠実でありたいと思う。けれど病院に行くことが誠実なのか、様子を見るのがよいのか、判然としない。
ひとまず今日は、平安貴族よろしく物忌みを選んだ。物忌みは穢れを避けて謹慎することを指す。私の場合は穢れを世間に撒き散らすことを恐れての謹慎だから、禊に近いかもしれない。
家人がインドア派だったことが幸いし、今日はアマゾンプライムで乗り切った。明日はどうなることやら。
インドア派、あるいは引きこもり好きという所では、藤原公任という男がヒットする。道長に三舟の才を認められた才人だ。
彼の父は関白まで上り詰めたが、藤原兼家という策謀家との政争に敗れ、失意のうちに没した。
その兼家の息子たち(例えば藤原道長)が軒並み最高権力者の座を手にしていた時代、父の地位には遥かに遠い大納言までしか出世できなかった男。その苦渋を飲み込み、道長を下から支える道を選んだ男。それが藤原公任だ。
下とはいえ、大納言も公卿の一だ。その座を得ることは簡単ではなかった。まだ大納言に至らぬ時代。出世を求める公任の希望が叶わないときもあった。すると公任、全力で拗ねた。中納言から出世できなかった際には数ヶ月間、不登校ならぬ不出仕を続けたらしい。上司はさぞ困ったことだろう。
その時の歌が残っている。
おしなべて 咲く白菊は 八重八重の 花のしもとぞ 見え渡りける
(『後拾遺和歌集』雑三九八二)
一面に 咲く白菊の ごとき僕 大輪の下の 霜みたいだね
「おしなべて」は「一面に」の意味だが、ここでは高く伸びることをおさえられた背の低い花々をイメージするべきだろう。貴公子・公任が自身を、出世できない有象無象の一に数えているのである。かなりいじけている。
その花は、ただ一輪で美しく輝く大輪の花とは幾重にも隔てられている。公任の目に、その姿は花にすら見えない。気高い一輪の美しき花の足下にはびこる霜柱程度の存在、と歌う。自虐にも程がある。
心が疲れた時には、こういういじけた歌に癒されることもある。だってこんなにいじけているのに、1000年も読み継がれてきたんだ。そうか、いじけても良いんだ、なんて錯覚したりもする。
本当はいじけても良いことなんて無いんだぜ。1000年残ったのは、公任が歌った歌、という要素が強いんだから。
「ただしイケメンに限る」の究極形がここにある。