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《和歌日記》2021年1月1日

ふる雪の みのしろ衣 うちきつつ 春来にけりと 驚かれぬる(『後撰和歌集』1 藤原敏行)
 舞い落ちる雪のように
 真っ白な衣をいただいて  
 年経た肩に引っかけながら
 こんな我が身にも春が訪れた、と
 驚きが溢れ出しているのです

 お年玉、もらえましたか?

 僕はいつの間にかもらう側からあげる側になり、そして親族間での金額調整にも気を使う、大人な立場になりました。親世代同士であらかじめ談合しておくのが正解なのか、それとも暗黙裡に探り合うのが良いのか。正解はありません、大人って難しいですね。

 さてそのお年玉ですが、このシステムが日本に根付いてからどうやら少なくとも1000年は経過しているようです。その1000年で変わらないこと、というより変わってはいけない様式美が、ひとつあります。

 いただく側は、お年玉を当然視してはいけない。

 ばあばに向かって「明けまして・・・」より先に「金くれえ」と突進していった我が家の6歳児など、言語道断なのです。

 意外にももらえ、望外の金額に驚き、その上で場に即した御礼の言葉を「即興で」放たなくてはなりません。即興感を出さねば、お礼の言葉を準備していた、つまりお年玉をもらうことを前提としていたかのように思われてしまいますからね。



 それでは理想的な「お年玉のいただき方」を、藤原敏行くんに、学んでみましょう。
 敏行くんは当時の皇后様から、お年玉として白い高級布をいただいたようです。貴族としては必需品になります。その御礼を、平安貴族らしく和歌で表現しました。

 冒頭の「ふる雪のみのしろ衣」には「ふる・・・み」で「経(ふ)る身」、つまり人生経験を積んだ自分の爺さん感を醸しだしています。このイメージが後から聞いてくるんですね。

 「うちきつつ」も良いですね。「肩に引っかけながら」と訳しましたが、別にバンカラを気取っているわけではありません。着物をプレゼントされる時には賞状みたいな手と手のやり取りではなくて、肩にかけられるんです。だって布だし。しっかり袖を通しているのではなくて「うちき」ている、と表現したことで、そのプレゼントされたタイミングの現場性を再現できています。

 「春きにけりとおどろかれぬる」は、「新春」と「お年玉をもらえた我が身の春(喜び)」を合わせて言っているんですが、まあありきたりな表現です。しかし、冒頭での爺さん感と結びつければ、今までの春はお年玉と疎遠だったこと、お年玉をもらえた今回の「春」は格別であること、という思いを表現できているわけですね。

 「ふる雪の」歌。「いただく側」の様式をきちんと踏襲しながら敏行くん自身の視点も取り入れて嬉しさを表現した、とっても上手な「御礼の言葉」なのでした。 

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