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和歌の小ネタ(5)和歌で大喜利 『古今和歌六帖』の世界
平安時代の和歌アンソロジーの一つに『古今和歌六帖』がある。ある主題で詠まれた和歌を集めてまとめたものだ。現代で言えば歳時記に近い。
その『古今和歌六帖』第四帖の主題は恋だ。主題はさらに細分化される。細分化された題の中に「女を離れて詠める」というものがある。つまり女と別れた男の歌だ。そこで突然大喜利が始まっている。
女を離れて詠める 紀友則
たぎつ瀬に浮き草の根はとめつとも人の心をいかが頼まん
激しく流れる川の瀬に、浮き草を根づかせることがてきたとしても、あの人の心はあてにできない。
上句「たぎつ瀬に浮き草の根はとめつとも」は不可能と思えるような出来事を描写している。そしてその事がもし可能だったとしても恋人の心を当てにすることは不可能だと嘆く。この和歌はつまり恋人の心の当てにならなさの度合いを強烈に印象づけようとしている和歌なのだ。
そしてこのパターンがこの歌を含めて40首ほど続く。ただし2首目以降は上の句だけ表記されている。
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ちなみに歌人名は記載されているが他に証拠が無いため実際に友則や貫之が詠んだのかどうかは分からない。詠んでいたらおもしろいとは思うけれど。
さてこちらを大喜利風に整理し直してみよう。
春風亭昇太「まず皆さんは『ちょっと聞いてよ、僕の恋人がめちゃくちゃ頼りにならないんだよ』と愚痴ってください。そこで私が「どれくらい頼りにならないの?」と聞きますので、皆さんはどれだけ頼りにならないかを何かに喩えて575で語って下さい。よろしいでしょうか。それではできた方から手を挙げてください。」
こんな感じ。
実作をいくつか紹介してみよう。
袖のうちに月の光は包むとも
月の光を袖で包んでしまうというのだ。パックイン袖。なかなか幻想的でしょう。
ちなみに袖に月影が宿るというだけなら定番ではある。例えば『古今和歌六帖』より早い成立の『古今和歌集』には次のような歌がある。
あひにあひて物思ふ頃の我が袖に宿る月さへ濡るる顔なる
丁度よく似合って、恋の物思いに沈んでいる時の私の袖の涙に宿る月さえも濡れたような顔をしているよ
いろいろ悩んで涙がじゃぶじゃぶ流れる。そこに月の光がさしこむ。すると涙があんまり多いから月の光まで濡れているように思えてくる。
濡れた月ということは言葉の上でしか存在しない。幻想だ。詩的と言っても良い。だからというわけでもなかろうがこの発想はずっと受け継がれていく。
百首歌たてまつりし時 藤原定家
梅の花匂ひを移す袖の上に軒もる月の影ぞあらそふ
藤原家隆
梅が香に昔を問へば春の月答へぬ影ぞ袖にうつれる
涙が止めどなく流れている。涙はやがて袖に染みこむこと無く溜まるほどになる。その袖の上の水溜まりは月影を宿す。
この表現はこの後「袖の月」という季語になっていく。袖の上に月を宿す水溜まりを作るほどの涙。それはすでにファンタジーだ。
しかし『古今和歌六帖』はさらに先を行っていた。袖に月影を宿した上でそれをパッキングしてしまうというのだから。
もう一つ。
真澄鏡主なき影はうつるとも
こちらはちょっとホラー。真澄鏡はよく澄んではっきりと映る鏡のことだ。「主」はその鏡に映る像の主。つまり鏡の前に立つ人のことと考えて良い。するとこの歌は「良く澄んだ鏡に前に立つ人もないまま人影が映ることがあっても」ということになる。誰もいないのに映る人影。ゾクゾクしちゃいますね。
というわけで今回は和歌の大喜利をご紹介。国語の授業などでやってみても良いかもしれない。