【新古今集・冬歌19】ワックワクだぜ!
月を待つ高嶺の雲は晴れにけり
心あるべき初時雨かな
(新古今集・冬歌・570・西行法師)
じっと月が現れ出るのを待っている
すると遙か高い嶺にかかる雲は
今はもうすっかり晴れてしまった
きっともののあわれを分かっているに違いない
初時雨だな
分かるようで分からない。例えば「月を待つ」の主語。それから「べき」の意味。
前者は「我」だと考えられてきた。たしかに高嶺も雲も月を隠すものだから月を待つ主体としてはふさわしくない。だからこの主語はたしかに「我」なんだろう。
後者は「心がありそうな」と推量の意味で理解するものと「心があってほしい」と弱い当然の意味で理解するものがある。「心があってほしい」は下句の風景を高嶺から離れた人里だと設定する読みだ。山の方が晴れたのだから里の方でも晴れてくれよと時雨に訴える。この解釈も魅力的。
しかしこの歌は『西行上人集』において「心ありける」と表記されている。すると「(時雨には)心があった」ことが西行のイイタイコトだという可能性が高い。初時雨はもののあわれを知っているためにやんでくれたことになる。
西行のイイタイコトに合わせた「心あるべき」の解釈は「心がありそうな」だ。これが妥当な解釈なのだと思う。
久保田淳は
秋の月高嶺の雲のあなたにて
晴れゆく空の暮るる待ちけり
(千載集・秋歌上・275・藤原忠通)
秋の美しい月は
遙か高い山にかかる雲の
向こう側にあって
だんだんと晴れていく空が
やがて暮れていくのを待っている
を「意識するか」と指摘する(『新古今和歌集 上』角川ソフィア文庫)。そうだとすると西行の歌の時間帯も絞れていく。きっと忠通の歌の月が待っていた日暮れを迎えた直後なのだろう。これから月が出てこようとする日暮れに合わせて時雨がやんで雲が晴れたのだ。
「来るぞ来るぞ」という心の声が聞こえてきそうだ。ずいぶんとウキウキした歌だということになる。
ぜひこの読みを推しておきたい。というのも西行のこの歌は『御裳濯河歌合』(西行の自歌合)で
吉野山去年の枝折の道変へて
まだ見ぬ方の花を尋ねん
吉野山にきた
去年来たときに目印として枝を折った
その木がある道とは別の道に変えて
まだ見たことの無い方面の
花を見に行こう
と番えられている。この吉野山の桜の歌にも未知の桜へのウキウキ感があふれ出ている。これから目にする月と桜に高まる期待。その期待を詠んだ二首を西行が番えたのだと思うとなんだか楽しいのだ。