3月2日 僕が教師であることと、貫之の木の下風
十数年前に中学生に現代文を教えていたころ、何を教えるべきか、何で教えるべきか、毎日迷っていた。
教えることにしたものの一つが読書だった。当時は読書感想文というものに懐疑的で、どちらかと言えばとにかく量を継続的に読ます、ということに主眼を置いていた。そこで担当学年の全クラスに学級文庫を置いたり本を紹介したりしていた。
読書指導の一環として、毎月課題図書を指定した。そして勤務校では毎月テストがあるため、そのテストの一部で課題図書の内容チェックをした。年10冊。中学のどこかからか始め、高2まで。エンデの『モモ』から始め、ドストエフスキーの『白痴』で終わった。最後は少々やり過ぎた。
本を指定すると、市内から指定した本が売り切れた。100人以上が買いに走るのだから当たり前だ。でも当時はそのことがどれだけ書店と生徒にとってストレスになるかなど考えてもいなかった。思い返すと非常に申し訳ない気持ちになる。
当時教えていた生徒が十数年後、課題図書の一つだった吉本ばななの『TUGUMI』について語ってくれた。
当時『TUGUMI』の清らかな文章に触れ、清らかな文章というものがありうるのだと言うことを知ったこと。
吉本ばななという存在を、頭の片隅に置いておけたこと。
その結果として今『キッチン』を読んで、凄いと思えたこと。中学生だった当時に『キッチン』を読んだのではおそらく意味が分からず、『TUGUMI』だからこそ印象に残ったのであろうこと。
泣けてくるほど嬉しかった。
まいた種が実を結ぶということが、実を結んだのを知ることができることが、こんなに嬉しいものだとは知らなかった。
ありがとう。感謝しかない。
教え子に残る言葉に我がいて国語教師はこういうものか
☆ ☆ ☆
嬉しい夜は、桜に浮かれた歌でも読もう。
桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける
(『拾遺和歌集』64 紀貫之)
桜が散り、風に吹き乱され、花弁が雪の如く舞う。
定番中の定番と言っても良いほどの主題だが、やはりこの歌は名歌だ。
まず「木の下風」が良い。風が木の下だけを目指して吹くことなどないだろうのに、この言葉のおかげで風の行く先が焦点化される。
木の下にいる男は立っているだろうか?いやきっと、座って手の先に舞い落ちる桜の花びらを眺めているだろう。
小さな小さな落花の景色だ。
「寒からで」。
さてこの風は強風だろうか、それとも弱風だろうか。
強風なんじゃないかな、と思う。弱風では寒さを打ち消す必要がないからだ。
桜の花弁を見つめていた男は、ふと風の気配を感じて一瞬目を閉じる。しかし到来したその風は、強く身に当たるものの、春の穏やかな日差しに暖められていたのだ。
男の緊張は再び解かれる。
思ったより暖かかった風。男は瞼を開き、その風の行先に視線を走らす。すると風に吹かれた先では、「空に知られぬ雪」が舞い散っている。どれほどの花弁が散ったことだろう。その艶やかさはどれほどだろう。
こうして木の下の落花のイメージは、存在しないはずの「雪」という言葉に導かれ、一気に視野全体に拡大する。
花という言葉を一切出さず、散りゆく花弁の動的なイメージを、視界全体に描いてみせた。
紀貫之、やはり天才だ。
桜が散る
この木の下で吹いている風は
思ったほど寒くはなくて
風の行先では、空には知られていない雪が
あたりいっぱいに降っている