【30代からはじめる芸術鑑賞】仏教美術の魅力と楽しみ方
こんにちは。
音楽家のこうたろうです。
世の中には様々なアートがあります。
アートの定義は難しいように感じますが、簡単にいってしまうと、「高い抽象概念がそこに在る」ということ。
もっと簡単にいってしまうと、「何かを感じられるか?」ということです。
何かを感じたらそれはアートであるといえます。
つまり食もそうでしょう。
食べ物を食べて何かを感じることってありますよね。
仏教美術も多かれ少なかれ何かを感じることが多々在るかと思います。
今回は奈良の仏教美術を鑑賞し、感じたこと、そして一人の芸術家として仏教美術をどのような視点で感じればいいか?について語ります。
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仏教美術の楽しみ方
今回は、奈良県の寶山寺、東大寺、法隆寺と巡りました。
寶山寺は有名な聖天さまが祀られているところ。
聖天さまはその昔、時の権力者が、あまりにも現世利益の効果がありすぎるため、「聖天様は怖い神様である」という噂を流して大衆に参拝させないようにしていたほど・・・だとか。
元は古代インドの神々のガネーシャが由来であり、その絶対的な商売の運、金運の効果は長い歴史の中で途絶えることなく伝わってきたまさに歴史が実証しているような状況なわけです。
この寶山寺は特に強いエネルギーがあり、ご利益がすごい・・・と真言系の有識者の方から聞いたこともあります。
山頂にあるため、車がないとなかなかしんどいですが、奈良県に観光の際は是非立ち寄ってみてはいかがでしょうか?
さて、仏教美術の話に戻りますと、筆者が今回特におすすめしたいのが、法隆寺の百済観音でした。
法隆寺には宝物館にて、様々な仏像が展示されているわけですが、これらの仏像って子供のころ、若い頃に見てもあまりよくわからなかったりしますよね。
なんでこんな像を見て楽しいんだろう?と若い頃に思ったことがあります。
ただ、今回久しぶりにこれだけコアな仏教美術に触れることができて、改めて仏教美術の楽しみを感じることができました。
テキストではない情報を得る
仏教美術の真髄は、テキストではない情報を得るというところにあります。
その時代、景色、そして人々の想い。
想いというのは、フォトンという粒子としてこの物理空間に目には見えない形で残ります。
まさかWIFIがないと生きれない現代の人で「目に見えないものは信じない」と豪語する人は少数派でしょう。
それらのフォトンによる人々の当時の想いや風景、政治、暮らしなどを仏像から得られるというわけです。
どうやって?
これは他のアート作品にも共通するところ。
例えばピカソの絵(原画じゃないとダメ)やゴッホの絵だって、描きてのエネルギーは必ずそこに投影されています。
書籍を読むことでテキストを通じて著者と対話ができるように、アート作品はフォトン粒子を通して様々なものと対話ができるものなのです。
これを今回法隆寺で百済観音を前にしたときに感じたこと。
そして百済観音からは実に膨大な情報を感じ取ることができました。
こちらは写真はNGだったのですが、たくさんの方に見ていただきたいと自信を持っておすすめできます。
信じられないほど強力な仏像の力
その昔、映像制作チームで音響を担当していた頃。
あまりにも強烈な力を持っているため一般公開できないという某有名なお寺の撮影に同行したことがあります。
しかも、筆者はスタッフだったのですが、この撮影に限り、任意。
つまり何があっても自己責任で同行してくれということでした。
筆者は覚悟を決めて同行。
仏像を前にしたとき、そのあまりにも強烈なエネルギーそして、情報量に圧倒されて、身動きが取れなくなりました。
それは何かしらの霊現象だとか、金縛りだとかそういう感覚ではなく、その仏像が見てきた、そして記録してきた抽象概念としての情報が凄まじく(つまりこれをエネルギーと表現する僧侶がいる)圧倒されたわけです。
おそらくこれらのフォトン情報をしっかりと解析し、読み込むことができる人もたくさんいることでしょう。
アカシックレコードがマクロの記録媒体だとしたら、仏像(宗派や国問わず)はまさにミクロの記録媒体であると言えます。
なぜなら、人々が長い時間様々な想念をそのモノ(仏像)に向けて送り続けてきたから。
だから仏教美術は面白いんです。
もちろん造形美としての美しさはありますが、造形美としての物質的な楽しみ方と情報という抽象概念を複合的に楽しむことが、仏教美術の楽しみ方の真髄であると言えます。
噛めば噛むほど味が出る、仏教美術の世界、みなさんも久しぶりに体験してみてはいかがでしょう。
きっと子供のころ、また若い頃には全くといっていいほどわからなかった新しい魅力に気づけるはずです。