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靴磨きのアテン Ⅱ

「それで、今日はどんな話ですか?」

 だいたい尾形さんがオレのところへ来る時は厄介ごとを抱えている。十中八九そうだ。

 尾形さんのローファーを馬毛のブラシでブラッシングしていく。強く、柔らかく。ブラシの先をしならせるように。

「んっとね。ウチによく来る女性のお客さんなんだけど」

「へえ、女性の方ですか。珍しい」

「うん、そうなの。パテントの赤のパンプスを持ってくるのね。エナメルは磨き方が分からなくてって」

「ああ、ありますね。よくあるケースです」

「まあ、そこはあんまり関係ないんだけど」

 尾形さんが腕を組む。ジャケットの下の襟ぐりの深いインナーから鎖骨が見えて、少しドキリとする。無防備すぎるでしょうが、全く。沈黙することで話の続きを促した。

「旦那が浮気したっていうのね。でも、事実無根だって旦那は言っているみたいで」

「ふうむ。それはそれは」

 お気の毒に、と思いつつ汚れ落としを綿の布に取って靴全体を少し強くこする。

「よりによって結婚記念日の何日か前に会社の若い女の子と会っているところにその女性が鉢合わせたんですって。修羅場 of 修羅場よね~。結婚なんて墓場よ」

「あはは」

 オレは乾いた笑いを浮かべることしか出来ず、どこか憂鬱そうな尾形さんを見つめる。この人に特定の男性がいたのはもう十年も前。オレが尾形さんの弟子になった頃。それ以降、オレはこの人の恋愛事情を知らない。

「それで旦那さんの往生際悪いのが気に食わなくて別れるって言って憤慨していたわけ、彼女は」

「なるほどです。ちなみに旦那さんはどこで会社の後輩と?」

「ジュエリーショップ、決定的でしょう?」

 オレは作業の手を一度止める。

「そうとも言えないですね」

「え?」

 尾形さんが驚いて目を見開く。

「結婚記念日前でしょう?」

「ええ、そうよ」

「旦那さんはそういうものを選ぶことに慣れておられますか?」

 尾形さんは口元に手を運び、考え込む仕草をとる。

「そう言えば、服装にも頓着しない人だって言ってた。なかなかそんなお店には入れないかも知れないね」

「付き添いだったとは考えられないでしょうか?」

「あ~、どうだろう」

 尾形さんは作業カウンターで頬杖をつく。

「それにしても、光一君の靴磨きはやっぱりすごいね。私を超えてる」

 すでに磨き終えたローファーを見つめて、尾形さんは言った。

「師匠のおかげですから」

「何をおっしゃいますか。もうあなたは独り立ちしたのよ。師匠だの弟子だのないわ」

 オレは後頭部に手をやって頭をかいた。

「そんな寂しいこと言わないでくださいよ」

「ふふ、寂しいの?」

 片頬をつりあげた尾形さんの笑みに、胸をギュッと締め付けられる。

「ウソです、寂しくない。早く帰った帰った!!」

「はぁ~い」

 尾形さんを追い出して、その背中が見えなくなってもドアを見つめていた。あの鈍感な女性はオレの気持ちに気付いているのだろうか。気付いていても多分、適当にあしらわれるのだろうけれど。

 さあ、今日もまだあと二時間営業時間は残っている。

 一足でも美しく、一人でも笑顔に。それだけでいい。それだけで。

Fin

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