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靴磨きのアテン Ⅰ

 馬毛のブラシを水で湿らせる。

 かかととつま先、黒の乳化クリームを入れた部位から全体になじませるようにブラシをかける。一通り乳化クリームを全体に行き渡らせると、最後は乾いた馬毛のブラシでブラッシング。これで、完成だ。

「大変お待たせ致しました」

 作業カウンターの向こうで談笑していたコカドという初老の紳士に笑顔を向ける。

「ああ、ありがとう。いつも通り素晴らしい仕事だね」

 コカドは嬉しそうに笑うとこちらが貸し出していたレザースリッパから磨き終えたばかりの自らの革靴に履き替える。

「うん、この輝き、この煌めき。最高だね」

 もう一度笑ったコカドは鞄から財布を取り出し、オレはシャツに着けたベストのポケットからキャッシャーの鍵を出して会計の準備をした。

「光一くんの磨く靴で、また一ヶ月がんばれるよ。ありがとう」

「いいえ、こちらこそいつも足を運んでいただきありがとうございます」

 深々と頭を下げて礼を言った。

「八王子からは結構遠いんだけどね」

 お茶目に笑ったコカドを同じように笑って送り出した。


 靴磨きの道に進もうと思ったのは大学三年の時。

 アパレルの販売員として都内でアルバイトをしていたのだが、趣味だった靴磨きに興味本位で足を突っ込んでみた。

 自分のたいした金額を出したでもない、でも気に入って大学入学から履いていた革靴を銀座にあるプロの靴磨き屋へと靴磨きに出したのだ。

 その見事な仕上がりに、オレはハマってしまった。

 手持ちの靴は三足あったので、それぞれを一ヶ月に一度、だからほぼ毎週その靴磨き屋に通って根掘り葉掘り靴の手入れの仕方について聞いた。

 それまで遊ぶと言えば酒を飲むことくらいで、友人から付き合いだけはいいと思われていたのにその誘いを断って資金を捻出して通い続けた。

 その内マスターに言われた。

「長野くん、ウチで働けば? 就活なんて面倒でしょう」

 女性マスター尾形さんの勧めで親の大反対を押し切って、オレは靴磨き職人の道に進んだのだ。

 三十歳を過ぎ、東京青山で店を構えることが出来た。無借金ならばよかったが、そうはならなかった。まあでも、一国一城の主になるのが昔からの夢だったし、誰がなんと言おうとここはオレの城なのだ。

 店のドアが開いた。店、と言っても小さな雑居ビルの二階、なかなか人の目に留まらない場所ではある。

「いらっしゃ……ああ、尾形さん。お久しぶりですね」

「やっほー、光一くん。どんな様子かと思って見に来たの」

 尾形弥生、推定年齢四十歳。オレが以前勤めた店のオーナー、師匠。憧れの人。オレがこの人と出会った頃、すでに彼女は三十を過ぎていたはずなのだがひとつとして歳をとった気配がない。すっとした切れ長の目の色白の美人だ。

カウンターに腰を下ろすと尾形さんはおもむろに履いていたローファーを脱いでこちらに渡した。

「お願い出来る?」

「えー?!」

 オレが悲鳴をあげると尾形さんは笑った。

「自分で磨くより、やっぱり磨いてもらう方が好きなの。お願い」

 しなを作られ、不本意ながら尾形さんの脱いだローファーにシューツリーを入れた。

続く

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