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写真を言語化するのは、少し野暮な気もするが。

写真が好きで、日々何かを撮っています。
気合いを入れて撮る時もあれば、道すがら撮る時もあったり。

一番大切にしたいのは、その場で感じた事を残すこと。
撮る時に考えすぎても、考えなさすぎても良くないって感じています。

Kamakura

人は考える時に、言葉で考える事が多いですよね。

普段から言葉でコミュニケーションをはかるし
考える時は母国語で考えることが多い。

写真を撮って10年になるのですが、当然その中で迷いや、悩みも出てきます。

何を撮ったら良いんだろうとか、これを撮った先に何があるんだろうとか。
どう表現したら良いかを考えたりもするし、
悩んでいるのか、考えているのか分からなくなるくらいには、頭の中にずっといます。何かが。

お仕事も撮影しているから、余計に考えますよね。

何考えてるのかなぁって、考えてみたんです。
そしてひとつの答えが出ました。

どこかで、写真を言語化して論理的に話したい!と感じているんだと思うんです。
それはつまり、言語化できないと理解できてない、、と考えている部分があるじゃないかなぁと。

それは全ての写真である必要はないのかもしれない。
(写真撮るの嫌いになりそう。たまには考えない写真も撮りたい。)

36枚撮影したうちの1枚だけでも良いと思ってます。

確実に自分で言葉に出来て、
誰かにロジックを説明できる写真。

再現度が高くて、見ている人の理解が進む、分かりやすい写真。

ただ、同時に写真は非言語コミュニケーションであることは間違いないって思います。
オーストラリアに3年ほど住んでいたけれど、写真を介して出逢えた友達もいますから。

言葉の前に写真がきたパターンのやつですね。
もちろん会話もあったのだけど、嬉しかったなぁ。

MELBOURNE
BRISBANE

感じたままに撮影した写真が、良い写真であることは多いと思います。魂がこもっているような。
そう意図されているかは分からないけど、そう受け取る事ができる写真。

だけれど、言葉で伝える以上には伝わらないのではないか、、と思う事も多い気がします。

それは写真を言語化して、人に何かを伝えようとすることが
写真というコミュニケーションを放棄しているのではないか、という事でもあるような。

言語化は少し野暮なのではないか。

うまいことまとまりがつかないのだけれど、
はっきりとしない曖昧さもまた、写真で表現できれば良いかもな、なんて思ったり。

さて、今日もまた写真を撮ってきます。

KOTA

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こーた ||写真家
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