ライフとワーク.
こどもが熱を出した。
日中、抱っこをしていて「こんな熱かったっけ?」と思い計ってみると、38度。でもいつも通り元気そうだし、仕事ももう少しあるしで、結局夕方まで。
食べやすい晩ごはんにしたけれど、いつも通りぺろりと食べた。
こどもは本当に舌をぺろりとするからおもしろい。
夜はちょっと疲れた様子もあったけど、いつも通り寝た。
でも、熱は38度ちょっと。
自分の体ではないから具合が分からず、もし深刻な病気か何かで、このまま目を覚まさなかったら。なんてことを本気で考えたりした。
なんてことはなく、朝はパッと目を覚まし、熱も下がっていた。
本当にパッと起き上がり、隣で寝ていた猫に声をかけるのだからおもしろい。
その夜、また熱を出した。39度あった。
今度は流石にしんどそうで、ぐったりした様子だった。
日中はそんな様子もなく、猫にご飯をあげながら、自分もこっそり食べるくらいには元気だった。
わたし自身、よく高熱を出すこどもだったと親が言っていたので、こんな感じだったのかなと想像する。しかし目の前のこどもがしんどそうにしていると、そんなことを悠長に考えてもいられない。
この夜は少し冷えそうだったから、暖かくして寝かしつけた。
寝かしつけた後も、見守りながらいろんなことを考えた。
寝て起きたら忘れてしまっているくらいのことばかりだけれど、こうして朝起きて書き出すくらいには心配していたようなこと。
他人の39度ってこんなに熱く感じるんだなとか、氷や水が貴重だった時代はどうやって看病していたんだろうとか。
その日の午前、見させてもらった古民家のことも思い出していた。
古民家、と言ってもリフォームもされていて綺麗な家だ。
しかし、亡くなったご主人が、集落でもみんな口を揃えて立派な人だったと言われるほど丁寧な仕事ぶりだったことが家を見てもわかる。
鍛治師ではないはずなのに、家の一角に鍛冶場があったりするあたり、本当になんでもこなしていたのだろう。
昔は暮らしの道具を手作りしたり、修理を自分でしたりすることは当たり前だった。それも昔、と言っても50年も経ってはいない昔のことだ。
いつから仕事と暮らしが乖離するようになってきたんだろう。
仕事と暮らし、というよりは、働くことと自分たちの衣食住をつくること、と言った方がイメージが近いだろうか。
今住んでいる地域でも、90代のおじいちゃんの暮らしぶりと、70代のおじいちゃんの暮らしぶりはまるで違う。戦前と戦後。いまだにその違いをきちんと把握できていない。でもそこで大きく変わっていったことは感じている。
どちらがいい、わるいでもなく、昔はよかったとかそういう話でもなく。
これからを生きる人間としては、過去から学び、変えるべきことは変えていくしかない。近い将来、仕事と暮らしとが乖離する時代は、AIによって終わりを迎えるはずだ。そうなった時、わたしたちはどういった価値観で、何を信じ、何を楽しみ、何を仕事としているだろう。
答えはない。
それぞれの暮らしで表現していくしかないと思っている。
でも、それを見つけるために助けあうことはできる。
暮らしをつくるための助け合い。
言葉にすれば当たり前のようなこと。
でもいま、それが必要とされているんじゃないだろうか。
都会暮らしで感じていた予感が、こっちでの暮らしを経て確信に近いものに変わっていく。
そんなことをぼんやりと、こどもを見守りながら考えていた。
noteの更新も、2日サボってしまった。
自分が熱を出したのであれば、意地でも書いてやろうと思ったはずだが、自分以外となると話は別で。
ただ盲目的に毎日更新することに意味はなく、暮らしにおいて大切なことを見極めながら書く努力をすることが大切なのだと改めて肝に銘じたのでした。
ライフとワーク。
バランスなんてない、それぞれが溶け合った時間の流れの話。
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