本当は比べられないものを比べて、優劣つけてしまっていなかったっけか。
人生で出会すものごとは、自分主観ではひとつの時間の流れで繋がっているので、どうしても比べてしまうもので。今朝のご飯は、昨日のご飯よりも美味しく炊けたとか、今晩は少し肌寒いなとか。
なぜ急に“比べる“ことの話になったかというと、わたしはよく「どっちが優れているとかではなくって」といった前置きをしていることに最近気がつき、それが妙に気になったから。ここを少し深堀りしてみたい。
比べること自体は、悪いことではないと思っている
まず前提として、比べることを否定したいわけではないのです。何かを選ぶとき、その対象を調べて比べなければ選べない、ということはよくあるので。だから比べること自体は悪いことではない。けれど「これ、比べちゃっていいのかな」という思いが湧き上がってくることがある。そんな時によく自分は、「どっちが優れているとかではなくって」と前置きをしているのだ。
比べること自体、悪いことではない。けれど、比べること、比べられることでネガティブな反応が起こることがあるということも知っている。だからどうにも、歯切れが悪い。
優劣がつくことを求める場合、そこには必ずルールがある。
では逆に、比べることが前提で、優劣がつく場合ってなにがあっただろうと考える。例えばスポーツ。少年時代、サッカーをやっていたのでよくわかる。点数を競い合い、より点を多く取ったチームが勝つ。そして勝ち続けたチームが優勝だ。あるいはコンテスト。これもいくつかコンテストに出たことがあるのでイメージしやすい。出場者同士で競い合い、優劣がつく。
これらから考えてみると、優劣がついて、互いにそれを求め合う場合には共通するものがあることに気づく。それは“同じルールの中で競い合っていること”だ。
スポーツにはルールがある。それに則り、競い合うことで勝ち負けの判定がつく。コンテストもそうだ。それぞれの表現方法は異なっても、同じテーマで、審査基準に則って競い合う。逆にいうと、同じルールでなければ決まった判定ができない。
ルールがないまま優劣をつけてしまえば、無意味な傷が増えてしまう。
同じルールの中で競い合っている場合、優劣がつくことに誰も文句はない。むしろ「全員優勝!」なんていうと、しらけてしまうことの方が多いんじゃないだろうか。全力を出して勝ちにいくからこそ、優勝というものは尊いのであって。
でも日常だと、「みんな頑張ってる。全員優勝でもいいじゃん」といった言葉は、否定されない。むしろ否定することで人間性を疑われる場合だってある。それは、みんなそれぞれに頑張っていて、それぞれの価値観を持っていることが前提だからだ。共通のルール(法律ではなく)で競い合う場ではなく、それぞれの価値観を持った人が暮らす場だと知っているからだ。
そう。知っているはずなのだ。けれど、わたしたちは共通のルールもなく、比べる必要もないものを比べてしまい、傷ついたり、羨ましがったり、妬んだりしてしまうことがある。
誰かと比べて「どうして自分はできないんだろう…」とか、「自分ってカッコ悪いな」とか、とかとか。
例えば、何かができる/できないの話って、比べるポイントを間違ってしまうとただただ自己肯定感を下げてしまうし、学びも少ないし、良いことなんてあまりない。つまり、同じ条件で、同じルールでできるかどうかを比べなければあまり意味はないし、比べる対象が方法なのか、結果なのかによっても話が変わってくる。この辺りを感じ取っていたからわたしは、「どっちが優れているとかではなくって」と、前置きをしていたのだろう。無意味に誰かを傷つけたくないのだ。
評価軸が無限にあれば、ものごとを正確に理解できるのかもしれない
もうひとつ、わたしがこの前置きをよく使うことには理由がある。それは、その対象を正確に理解したいと思うからだ。何かと比べ、優劣をつけてしまうと、どうしてもその比較するものに印象が引っ張られてしまう。そのものごと単体での理解ではなく、比較した結果の理解になるのだ。どっちでもいいことのようで、大切なこと。何かを尊重するということは、そのものごと単体での理解を深めることから始まると思っている。
だからこそ、自分の中に評価軸があればあるほど、比較する必要はなくなるし、それによって傷つく/傷つけられることを心配しなくてよくなる。多様性を表すときに、“グラデーション”という表現を目にすることがあるが、その“グラデーション”の幅がどれだけあるか。それによって、居心地の良し悪しも変わってくる。それに似ている。
あ、そうか。この話って、多様性理解の話に繋がるのか。
どうやら自分は、無意味に誰かを傷つけたくない、というよりは、その人やものごとを正確に理解したい、という気持ちもあって、無闇に優劣をつけたがらないようだった。