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セックスの合意について

卒業論文も提出し、すこしゆとりができたので、noteの執筆を再開しようと思う。今回は、なんちゃって書評を行うつもりだ。なんちゃってということは、厳密な書評ではないので、グダグダ書いていくし、最後に私の見解を述べて、セックスの合意の問題に接続しようと考えている。
今回、書評する書は、濱野ちひろ『聖なるズー』である。最初に、この本の著者である濱野について簡単に紹介し、本の概要について説明する。

1. 著者について
著者は現在京都大学大学院博士後期課程に在学している。専門は文化人類学である。大学院に入学する前は、様々なジャンルの記事を執筆していたようである。著者が文化人類学、とりわけ、「ズー」と呼ばれる人たちに注目するようになったのは、彼女が過去に結婚相手から受けた性暴力が関係している。詳述はさけるが、彼女によれば、結婚する以前から、パートナーによる性暴力に苦しめられ、結婚後もそれは続き、離婚後もその悲惨な過去に苦しめられているという。

2. 本の概要について
『聖なるズー』という一見して、何についての本なのか検討もつかないこの本は、個々人の偏狭な価値観に亀裂を入れ、破壊し、その後で再構築を促してくれるような本である。少なくとも、私はそうであった。タイトルにある「ズー」という用語を理解するには、まず今日の性的指向の多様化について考えてみるとよいだろう。たとえば、現代において、個人の愛の対象は様々である。同性を愛する人々もいれば、異性を愛する人々、その両方、などである。そんな中で、ズーという人々は、愛の対象が動物なのである。この本に従えば、犬、馬、ネズミである。動物を愛の対象とする人、それこそがズーと呼ばれる人々である。正確には、ズーはzoophilia(動物性愛)の略称である。
濱野は、世界唯一の動物性愛者団体であるゼータと接触するために、ドイツに向かい、実際にズーの人々と生活することで、ズーの実態を確かめた。
ズーが強調する点としては、彼等は動物を人間と対等に扱っており、決して単なる手段としてのみ扱っていないということである。したがって、彼らに言わせれば、動物を愛することと、獣姦は異なるのである。というのも、後者の場合は動物の意向や苦痛を無視し、人間の性的快楽の充足のために道具的に用いているためである。そのため獣姦は、動物虐待とほとんど同義のものである。一方で、前者の場合は、動物との合意のもとで成立するものである。そのため、ズーは獣姦を徹底的に批判する。とはいえ、動物との合意は成立可能なものなのであろうか。
動物はそもそも言葉を話せない。言葉が話せないということは、合意が成立しないというのが一般的な見解ではなかろうか。しかし、ズーの人々は言葉とは異なる、あるいは言葉を超えたものによって合意を可能にしていると濱野は推測する。
たとえば、彼女はズーの一人であるミヒャエルという男性と数日間生活した。彼は、キャシーというメスのイヌをパートナーとしている。濱野が彼と会ったときの印象が興味深い。ミヒャエルは彼女とはあまり会話をせず、とても無口な男性だったという。これは彼の本来の性格に起因するものであると推測されるが、必ずしもそうではない。濱野は彼と生活をしていくうちに、どうしてミヒャエルがそこまで無口であるのかの理由が明らかになった。それは、動物と住むということは、会話が不要であるため、そもそも話すことの必要性がないということである。そのかわり、キャシーとのアイコンタクトや彼女の動作を目で追う仕草などが頻繁に見られた。つまり、言葉以外の方法で、ミヒャエルはキャシーと会話していたのである。
このようなことは、セックスの合意のさいの重要な要素となっている。実際に、多くのズーが自身のパートナーとのセックスをするさいに、「動物の方から誘ってくる」という表現をしている。おそらくここには、自身のパートナーの仕草や表情、目線などから読み取るサインをズーが受け止め、理解することによって成立する合意がある。この合意は、言葉を用いない合意である考察できるだろう。

3. 考察
動物とのセックスの合意については、決して動物と人間の間の関係だけにはとどまらない汎用性があるだろう。というのも、われわれ人間もセックスのさいに明確な言語的合意を結んでいるわけではない。たとえば、「いまからセックスをしよう」「はい」などといってするわけではない(もちろんそのような健全な?セックスをする人もいるであろうが)。そのようなことをしようものなら、セックスそれ自体が無味乾燥な一つの作業に堕落してしまうように思われる。しかしながら、たとえば恋人同士がセックスをするさいには、合意が成立していると推測される。ともすれば、レイプをしたと訴えられかねない。実際、恋人同士であっても、強制的に性交をすれば道徳的に不正であるのみならず、法的にも罰せられる可能性がある。それにもかかわらずわれわれは、合意は成立していると考えている。その根拠は何なのであろうか。もしかしたら、そもそも合意は成立しておらず、ほとんどのセックスはその場の雰囲気や流れに身を任せており、正当な合意とは言えないのかもしれない。しかし、あえて正当な合意が成立していると考えるならば、そこには言語を超えた合意が成立していると推測するしかない。つまり、ズーの人々と同じように、われわれはお互いの仕草やアイコンタクトなどを通して、お互いのサインを受け取ることで合意を成立せしめているのである。もしかしたら、その場の雰囲気や流れこそが、言語外の会話を通して発現するサインなのかもしれない。
とはいえ、このようなある種直観的ともいえる合意は曖昧である。実際、ズーの人々も彼ら独自の主観的な解釈をしているため、獣姦と何ら遜色がないと批判されることもある。医療の合意、つまり、医者が患者に治療を施すさいには、厳密なインフォームド・コンセントが成立していなければならない。それは医療の多くが侵襲的であり、リスクが伴なうためである。セックスの場合も同様ではなかろうか。侵襲的な行為であるとも解釈できないわけではないし、レイプされたとなれば被害者の精神的苦痛などは計りしれない。そのため、もしかするとセックスの治療と同程度の合意基準を設置する必要があるかもしれない。実際に、SNSなどを見ていると、合意を明確化する必要があり、その程度もかなり高いものを求める傾向にある。
しかしながら、そうなってくると先述した通り、セックスが無味乾燥であり、作業のようなものになってしまう可能性がある。果たして、そのような合意が厳密化されたセックスはセックスといえるのだろうか。以上のようなことを考えるのに、この著書は意義のあるものであった。

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