禁煙ファシズムとたばこの煙

禁煙ファシズム
先月の下旬、国立大学法人である長崎大学の河野茂新学長が新規採用にあたって、喫煙者を採用しない方針を発表した。それ以前にも、電気通信事業者として国内において最大規模をほこるソフトバンクも、社内の喫煙所を撤廃するなど喫煙をゼロにする姿勢をとっている。このような喫煙や喫煙者にたいして、その行為を禁止するもしくは抑圧するような強迫的な態度を「禁煙ファシズム」と称して、そのようなイデオロギーにはどのような構造が背景化されているのかを明確化する。また、その構造にはどのような危険性が隠れているのかを示したい。最初にどうして喫煙がこれほどまでに非難されているのかという問いに応答することによって、禁煙ファシズムにおける核心的な思想をすくいとることにする。

個人という問題―マクドナルドは高カロリー
「タバコは健康に悪い」ものであるという判断は、今日ではあたりまえのように受け入れられており、その科学的な事実を否定するものは少ない。実際紙タバコを購入すると、ご丁寧に心筋梗塞の危険性があることを知らせてくれている。この事実はいったん受け入れておくことにしよう。たしかにタバコは健康に悪いのである。だとすると、個人レベルにおいて、当人の健康を害する行為を当人以外の第三者が禁止することができるのかと問うことができる。具体的にいえば、政府や家族などの第三者が喫煙を禁止する権利があるかということである。たしかにこのようなパターナリステックな介入はときとして正当化される。例えばシートベルトの着用義務がその一例である。シートベルトをしたくなく、いくらそれが自由であるといっても、交通事故のリスクがあるかぎり、シートベルトの着用義務は正当化されるかもしれない。シートベルトをした方が合理的に考えて当人の幸福に資するからである。おそらくこのような理由づけができるだろう。一方で、このような第三者の介入を正当化するのは容易ではない。つまり、人々が他者に危害を加えない範囲内での自由を制限するのは難しい。例えば、私の母は仕事から帰ってくると、必ずといっていいほどスナック菓子を食べる。それも深夜に。どうみても健康に悪い。だからといって、ポテトチップスを廃止するのは理にかなっていないと感じるだろう。私も湖池屋のポテトチップス(のりしお)がコンビニから消えるのは嫌だ。たえられない。それに母のみならず、私も自身の健康を害していると感じることは多々ある。私はゼミ発表の一週間前は不摂生な生活を送っている。睡眠もほとんどとらないし(というよりとれない)、食事もマクドとかになる。陽の光を浴びない日もある。寿命が縮まるのがひしひしと伝わる。まあ例はこの辺にして、日常的に健康に悪い、それもタバコより悪いのではと思うものがやまほどある。喫煙を第三者が個人レベルで廃止したいのなら、喫煙とその他の行為を明確に線引きする必要がある。このような線引きを倫理学では「道徳的に重要な違い」と呼ぶ。正当な理由なく区別してしまうと、それは恣意的な区別であると評価されてしまう。この恣意性は日常にも当てはまるだろう。ある集団の中で、その集団を二つ以上の集団に区別し、そのいずれかの集団の扱い方を変えるとそれは一般的に差別と呼ばれる。LGBTにたいする差別はこのような意味で不正なのである。正当な理由をもって線引きをし、喫煙のほかの行為を区別するのは難しい。
このようなときにしばしば挙がるのが、依存性という観点だ。つまり、タバコは依存性があるからほかのものから区別されるというものだ。しかし私が常に思うのは、依存性そのものが悪いのか、それとも依存することで喫煙回数が増え、健康を害するから悪いのかということである。この依存性というのは二つの意味をもつことがあるのである。後者であるならば、先ほどのお菓子の例に戻ってしまい、循環する。前者であるならば、依存性そのものが悪いことを示す必要がある。しかし依存というのは喫煙以外にも往々にしてあてはまる。恋人に依存したり、アニメに依存したり、依存と呼ばれなくても、私たちが自分の人生においてなくてはならない存在というのは多々ある。それらは悪いと評価されることもあるが、人のいきがいや人生を豊かにするものとして、プラスに評価されることのほうが多いだろう。よって依存性という観点から線引きをするとしても、説得力に欠ける。
個人レベルで喫煙を禁止するのが難しい理由のひとつは、自己所有権という価値観が強固であることがあげられるだろう。自己所有権というのは、私の身体は私が所有しており、そうした理由から自分の健康を害することも私の自由であるという考えである。ポテチ、マクド、そして喫煙が身体を害するとしても自分の身体であるために正当化されるということになる。たしかに私たちの身体は誰のものかと問われたら、それは私たち自身のものであって、私の身体は私のものであり、君のものでもなければ、政府のものでもないと言いたくなるだろう。タトゥーをしたり、ピアスをあけたり、美容整形をしたりと。それらは自分の身体であるからこそ正当化されるのである。こうした考え方は、なかなか説得力がある。そのため、先ほどの第三者の介入の正当化というのが、うまくいかないことがある。
だとすると、禁煙ファシズムの背景にはこうした個人レベルの話しはからんでいないのかもしれない。からんでいたとしても、それが主要なエッセンスではないと思われる。そこで、次にからんでくるのは他者レベルである。

他者という問題―納豆の爆弾と娘の彼氏
受動喫煙という問題は日本政府にとっては容認しがたいらしい。事実、改正健康増進法では受動喫煙の禁止が名言されている。たしかに喫煙者は非喫煙者に煙を吸わせる権利はないだろう。ここに隠れているのは無危害原則である。無危害原則とは、端的にいうと他者に危害を加えるべからずという原則である。一般的にこの原則は私たちの社会でひろく受け入れられている。例えば、私は今自分の顔を自分自身でパンチしてみる。痛い。しかし、私の横にいる、なんか娘に最近彼氏ができたらしい会話をしているお父さんをパンチしたらどうだろうか。おそらくその彼氏を殴るかのように殴り返されるか、もしくは10分やそこらで、私の両手に銀の輪がつくだろう。これは無危害原則というのが法的にも考慮されているからである。受動喫煙も同様である。タバコの煙は自分自身ならいいが、他の人にはだめということである。そのために、分煙が徹底されている。例えば、私が今いるカフェは喫煙エリアがあり、禁煙エリアとは自動ドアを挟んで隔離されている。しかしおそらくそれでは不十分であり、喫煙は全面的に廃止されるべきであるという主張が禁煙ファシズムの背景にはある。禁煙を主張する人に話しを聞くと、吸った後のにおいやわずかなにおいでも危害とみなされているようであった。ここではもっと話しを限定する。路上喫煙をするもの、決められた場所で吸えない人は論外である。しかし、そうした人がいるからといって喫煙者全体をモラルがないとみなすのは道理にかなっていない。それは一部の人が性犯罪を犯すからといって、男性全体が性犯罪者予備軍であると判断するのと同じくらい理にかなっていない。よって、ここでは実際にマナーを守っている喫煙者に限定して話しを進める。
 わかりやすいように、架空の人物であるたばこ君を作ろう。たばこ君は喫煙者である。家族の中では彼ひとりが喫煙する。つねに煙に気をつかい、家にいるときはベランダで、外出時には所定の場所で喫煙をする。このたばこ君にたいして、無危害原則を強迫的に主張する禁煙論者はこのように主張するだろう。どんなに分煙を徹底したとしても、吸った直後のにおいや、服についたにおいなどは有害であるため、他者に危害を加えることになると。たしかにそうかもしれない。たばこのにおいが苦手な人にとってみればこれは有害であると判断できる。しかし、この禁煙論者はあるものを無視している。それは人間関係および、それに伴う寛容性である。
私がこの世で嫌いな食べ物は三つある。それは梅干しと納豆とセロリである。中でも納豆は断トツで嫌いである。あのなんともいえないにおいが受けつけないのだ。長時間かいでいると気分が悪くなる。まさに生理的に受けつけないとはこのことだと思う。私が反納豆主義者なのは、私の家庭内では周知の事実であるが母と妹はこの悪魔の食べ物がだいすきである。よって、かなりの頻度で納豆を食している。それも納豆を調理した日なんかにはそのにおいの威力は格段に跳ね上がり、私は窒息死しそうになる。非常につらい。これも危害に該当するのだろうか。私は危害であると判断していない。それはなぜだろうか。
それはおそらく、人間関係というものが背後に存在するからである。つまりそれは家族だから許されるのである。例えば、家族に叱られる場合と、見ず知らずの人に叱られる場合では意味が異なってくるだろう。見ず知らずの人に𠮟られたら、私のことを何も知らないくせになどと思ってしまいそうである。このように、自分を中心とした周りの人間関係、および行為者と自分との距離感によって行為の意味は変化する。それと同時に危害とみなされる行為もまた変化する。家族がしたら許されるが、友達だったら許されない。もしくは、友達だったら許されるが、知り合い程度なら許されないなどである。このようにして、許される度合いとともに、危害とみなされる行為も変化している。しかしながら、人間関係に依存せずとも危害とみなされる行為もあるかもしれない。例えば、殺人などはそれに該当するかもしれない。家族間での殺人はどうだろう。被害者が自分の意志によって殺害されることをのぞむ場合―すなわち当人が危害を加えられていると考えていない場合―その殺人は正当化されるのだろうか。これ以上の検討はここでは控えるが、とにかく人間関係によってある程度、行為の意味は変化しうるということをおさえておきたい。
そのようにして考えてみると、先ほどのたばこ君はどうなるのだろうか。家族はそれを危害と感じているのかは甚だ疑問である。たしかなことは、人間関係を踏まえてその行為を評価しなくてはならないということである。それをないがしろにしてはいけない。おそらく禁煙ファシズムの背景にはそのような人間関係の排除が隠蔽されている。
 
人間関係とたばこの煙
私たちは人に、とりわけ親しい人々に迷惑をかけずに生きていくのはほとんど不可能である。第三者的には危害であると考えられるものも、当事者間では危害ではないことが多々ある。それはお互いに危害を加えあっているということを、人々が互いに無意識的にせよ、意識的にせよ理解しているからではないだろうか。そしてそれを理解するということは同時に、寛容であるということである。危害に敏感になりすぎず、神経質にならないということである。そうしないと人間関係とは円滑に進まないものである。なぜならば、前述したように、迷惑をかけずに生きていくことは容易ではないからである。人々の価値観が異なり、衝突が生じ、どちらかが妥協せざるえないという社会であるかぎりそうである。これは人間の実存にかかわるといってもいい。
しかしながら、今日では人間関係が無視されつつある。それは人間関係が築きづらいものであるためかもしれない。すべての行為がシステム化されており、決められた範囲でしか行動できない。会社では与えられたタスクをこなすことに焦点がおかれ、全てがシステム化される。近頃の飲み会批判もこれに起因するだろう。SNSにおいても、他人と同様な投稿や、画一的な投稿があふれていることがシステム化を象徴している。システム化を通して人間関係を築くことは不可能である。なぜなら、システム化というのは固定化するということであるが、人間関係は可変的であり、流動的であるためである。人間関係は常に同じ状況にあるわけではない。この瞬間にも私たちの思考や感情とともに、流れ、変化し、切断され、そしてあたらしく接続される。それはたばこのけむりのように、ふわふわとただよい、離散し、きえていく。それをおそれてはいけない。

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