一教科全ベット時代
高3でのクラス替えで、またC組になった。
周りを見渡す。
よく考えたら1年生の頃からずっとC組だったのは、稲中仲間で野球部の山本くんと私2人だけだ。
おかしいな…何で私と山本くんだけずっとC組なんだろう…?
(おそらく…最下位コンビだから⁈)
担任は“おぐちゃん”から“ミスター佐々木”という、30代で一風変わった、チャラくていい加減と評判だった英語教諭に変わった。
ミスター佐々木をひと言で例えるなら、ビートルズのリンゴスターのような風貌である。
当時では珍しい“生徒とタメ口をきく先生”であり、生徒の感覚に非常に近い目線を持った新しいタイプの先生であった。
C組のメンツは、2年の時から行動を共にしていたウッチー、千景、ミナ、稲中仲間の山本くん(前出の野球部の)、オシャレでギャルなユキちゃんの彼氏豊田くん、家が近くノートを借りによく遊びに行っていたSくん…親友のみっきーとしおりんもいる。だがみっきーたちとはグループは違う。
楽勝!!なメンバーだ。
私の隣の席は、高2の頃から少し気になっていた、進学校には似つかわしくない“ワル”なオーラたっぷりのニヒルでセクシーな堀越くんという男子になった。
(ラッキーすぎて鼻血が出そう!)
受験の学年なのに、“C組はダラけている!”と、授業に訪れる様々な教科担任に揶揄された。
担任になったミスター佐々木は、初日、教室のあらゆる場所に“ミッフィーちゃん”のうさぎのぬいぐるみを飾った。ブルーナがお好きらしい。
そしておもむろに、サン=テグジュペリの『星の王子さま』を手にとり、
『これは子どものための童話じゃない、大人のための童話なんだ。俺の本なんだが、教室に置いておくから皆好きな時に読んでくれ!』
と後ろのロッカーの本棚にそっと置いた。
私にとってはこれまで見たどの先生よりも気が楽で、“学校の先生”という四角四面なイメージをぶっ壊してくれる逸材であった。
こんな高校教諭もいるんだ…が第一印象である。
そんな破天荒なミスター佐々木率いる3年C組は、“THE•大学受験″のオーラを放つ他クラスから白い目で見られながらスタートした。
私の進路といえば、高2の夏休み、東京のリエママの“ソプラノ歌手のお姉さま”から紹介してもらった、地方の音大教授(ビゼー教授)のレッスンに月1で通うことになり、受験もその音大の短大をまず受けることにほぼ確定していた。
(過去記事:ソプラノ歌手の先生〜優雅なお手洗い、音大教授のお宅訪問&レッスン参照)
担任のミスター佐々木にも早々都合を話し、月1回学校を午前中に早退し、そのまま新幹線に乗って他県までレッスンに通う“自由な日”を手に入れた。
何も知らない同級生たちは、受験生なのに月1回堂々と学校を早退する私を見て不思議そうな顔をしていた。
制服のまま、コピーした楽譜一式と新幹線のチケット、おばあちゃんからもらったお小遣いを握りしめ、新幹線自由席の喫煙車両にわざと乗った。
ある時、隣の席に座るサラリーマンが吸うタバコの匂いがとても良い香りがする事に気づいた。チラッと見ると、PEACE LIGHTSという銘柄だった。白と紺のシンプルなパッケージ。
アケミの影響でセブンスターを吸い始めたがヤンキータバコと言われ、マルボロメンソール、ラッキーストライクあたりを吸っていたのだが、やはり煙くさいニオイが制服につくのが嫌で、それらを大量の香水で誤魔化していた。
ほんのりと紅茶のような、バニラにも似た何とも言えない良い香りがするサラリーマンのタバコの香りが脳裏に焼きつき、マルメンから速攻PEACE LIGHTSに変えた。
それから約10年間ピースライトとの長いお付き合いが始まった。
もちろん、ビゼー教授のレッスンに行く時には最新の注意を払い、絶対にバレないよう、ありとあらゆる物でニオイを消す。
レッスンは高校生なので1時間1万円、ハノンのスケール&アルペジオの弾き方、バッハ、ベートーヴェンやモーツァルトのピアノソナタなど毎回課題を持っていく。地元のK先生に習っていた事と、解釈が大きく違う点も多かった。
(K先生は、音大教授の指示に従うよう補助してくれた)
ピーンと緊張感の張りつめたレッスンが終わると、ビゼー教授に謝礼(レッスン料)を渡し、次までの課題を言われたあとは完全なフリータイムだ。
駅前の三越に走り、おばあちゃんからもらったお小遣いで、べティーズブルーというロリ系ブランドショップでカットソーやTシャツを毎回購入した。
地元にはないオレンジ色のショッパーを手に、家には適当にお土産を買ってそのまま新幹線で地元まで帰る。
高3になってからも遅刻はするが、せめて赤点を取らないようにだけ注意した。
推薦の枠を狙っていたのだが、評定が3.0以上あれば良い。
後に知ることになるのだが、音大の推薦枠を狙う者は大概、評定の平均値が3.0以上と相場が決まっていた。
たとえそれが偏差値35の高校であっても、偏差値60の進学校であっても同じとみなされる…
『偏差値35の高校で3.0以上を取る事と、偏差値60の高校で3.0以上取ることの意味、大学側ってわかってんのかな?コレって理不尽じゃね?』と親友のみっきーに愚痴った。
授業の内容も進度も、範囲もテストの難易度も、前者と後者ではまるで違うのだから。
実技に特化した大学なので、要は実技とソルフェージュができればいいのね…。
音大、美大、体育大学はよくそのように揶揄される。(国公立大は除く)
後の人生で、ありとあらゆる人からあらゆる場面で、『音大って偏差値低いよね?勉強できなくても入れるんでしょ?バカでも入れるんでしょ?アホばっかって聞くよ…』
なんて散々言われる意味はソコにあったのか…と嫌々ながらも納得するしかなかった。
(そういう事を言う人間に限って、何の実技も特技も持ち合わせていない場合が多い)
まぁペーパー試験一発勝負、偏差値だけで勝負する一般大学の者からすると、不思議に思うのかもしれない。
とにかく数学で足を引っ張らないよう、もしもの時のために保険をかける、他教科で稼ぐしかない。
ありがたい事にB,C,D組の文系3クラスは、数2、数B止まりだった。
なので数学の授業は1、2年の復習、先生はおじいちゃん先生、救われた。
私の好きなTはA組の理数科におり、数3数Cを終え、高3の1年間は大学受験へ全ベットする勢いであった。
(A組もしくは学年のアイドル的存在だった、グラマーかつ清純派の梨花ちゃんに、数3数Cの教科書を見せてもらったが、卒倒しそうになったのは言うまでもない)
ダメだ、住む世界が違う…とにかく点数稼ぎできそうな教科と言えば、政治経済しかなかった。
中学3年生になって始まった公民の分野だけ、自主的に取り組み、1番を取ることができた。それの高校ver.だ。
政治経済の教科担任の女の先生は、非常勤講師であったが、非常にリベラルな思想を持つ教師であった。ショートカットがよく似合う、地味だがハキハキした先生だ。
高校の政治経済のベースは公民であり、公民とは何かを教えてくれたのは、紛れもない毎日国会中継を見ていた祖母である。
プラスNHK、教育テレビ、BS放送しか見てはいけない…という“偏向教育″も功をなし、自衛隊問題から国会や行政のシステム、憲法の条文なんかは自然と頭に入っていた。
高校の成績では散々ケツを取り、周囲から勉学において非常に馬鹿にされていたが、政経だけは死んでも1番を取ってやろうと覚悟を決めた。
音楽の授業では、2年の3学期に初めて4という屈辱的な評定がつき(過去記事:ボーカルと評定参照)、高3になってからは選択科目になった。もちろん音楽を選択したが、やはり自由時間ばかりだった。
コレはチャンス!と、弾きたくて仕方なかった黒夢のNIGHT&DAYのギターのコードばかりをひたすら練習しまくった。
3年の1学期の中間テストから政治経済だけ他教科の数倍時間をかけた。
周囲の者はセンター試験を受ける“ガチ勢″ばかりであったが、その者らに劣る事のないよう真剣に取り組んだ。
中1の頃から毎学期中間期末…と部屋に運ばれてくるコーヒー地獄の刑にも慣れた。
高校に入って、5教科で初めて取った97点は政治経済が初めてだった。
もうこうなると、100点を取れなかった事が悔しく、どこでミスをしたのか何度も見直した。
テスト返却のとき、政経の先生は私にニッコリと微笑み、周囲の者は驚いていた。
『マジで?ハッシー何なに?ホントに実力なん?…え、見せてよ…』
1、2年を通しいつも数学の補講メンバーに、学年の女子の中でたった1人居続けた私は、周囲からバカのレッテルをはられていたようだ、無理もない。ケツを取ったのも事実なのだから。
(過去記事:トップオブザトップ参照)
普段私とは口も聞きたくないというオーラを放っていた、文系クラスの1番や2番の者が、次第に政治経済のテスト返却時だけ話しかけてくるようになった。
『ワリーね!勝ったよ!』と微笑み返す。
『マジで?なんで?(政経だけ)』と言われると、これまでの雪辱を少しはらえるような気もした。
度数分布表を見ると、中間も期末も政経だけ学年最高点だという事が分かった。
数学では散々ケツを取っていたが、政経のみ学年1位。
これは理数科や、普通科よりも偏差値が高いと言われていたE組の英語科の者も含めた199人中の順位であり、もちろん5段階評定は5、1教科でも1番が取れた事が素直に嬉しかった。
友人やクラスメイトは不思議そうな顔をしている。そして3年間いかに自分がバカにされていたか、という事もこの時理解した。
『やれるもんならやってみろ!成績がケツだとバカにしていた私に負けて悔しいなら、政経だけ勝負してやるよ、ぜってー1番は渡さないからな!!』と、成績優秀で悔しがる男子生徒に笑いながら言い放った。
私はこれまでの学校生活で、音楽以外、1番を取った事はただの一度もなかった。
あるとすれば中3の公民だけ。
特に5教科においては進学校に在籍していると、並大抵の努力では一桁の順位が取れない事は百も承知であった。
初めて味わった心地よさ、授業の楽しさ。
より一層、政経の先生の話に耳を傾けるようになり、新聞も隅から隅まで読むようになった。
夏休みの課題で、当時から気になって仕方なかった北朝鮮関係の本を読みあさり、それらをテーマにした論文形式のものを提出した。
(それまでの歪んだ我が家の様子、祖父と母による暴力による恐怖政治が、北朝鮮のソレとそっくりだと気づいた私は、母の事をあだ名でジョンイルと呼ぶようになった、ちなみに祖父はその親なのでイルソンと呼んだ)
おかっぱ頭にミケ猫カラー、ピースライトに飲酒、エロビデオを男子と回し合いをしながら、狂ったようにジュディマリと黒夢ばかり聴く私が、北朝鮮の深刻なテーマを課題に選び、分厚い論文形式さながらのシロモノを提出したので、友人たちまでもが驚いていた。
夏休み、例のスーパーで繁忙期だけのアルバイトをしていると、どこかで見たことのある中年女性が、カゴを持って私のレジに並んだ。
『アレ?誰だっけ……し、しまった!政経のセンセーだ…ウチの高校バイト禁止なのに…よりによって見つかったのが大好きな政経の先生とは…ヤバい、学校にチクられたら停学モンだ…全てが水の泡だ…』
政経の先生は非常勤講師だった。普段は主婦業をしているのだろう。
運良く?それまで誰も学校関係者が訪れた事がないこのスーパーに、よりによって1番頑張っていた教科担の大好きな先生が来るとは……
先生は私の顔を正面から見てニコニコ笑っている。
私は業務用語以外、ひと言も先生と口がきけない、気まずい。
先生の顔もロクに見れない。
会計が終わり、気まずい顔をしていた私にひとこと、
『今日のこの事は見なかった事にします!』と私に微笑み、先生はレジを去った。
『!!!!神だ!!ジーザス!ウチのジョンイル(母親)に報告しなくては!!』
それ以後、先生が私のレジに現れる事はなかった。
政治経済のその先生をより好きになり、2学期も頑張ろうと決めた。
音楽は4、社会科(政経)だけが5、あとはオール3、平均すると一応3.0以上クリアだ。
政経の“一教科全ベット主義″に救われた。
皆さんがどうお考えか分からないが、以下は私の勝手な解釈である。
勉強、ピアノ、スポーツにしろ、嫌々でもモーレツに努力をすれば、誰でもある程度、5割〜7割、人並みくらいのところまでは伸びる。
(当たり前だが身長は伸びない)
しかしその努力の種類とは、人によっては1日1時間で精一杯の者から、1日5,6時間が当たり前の者もいる。
努力の種類が人によって大きく異なる。
時間をかければ良いというのではなく、いかに効率的な努力を続けるか、わからないところをあらゆる角度から徹底的に調べ上げるか、そもそもそれらの行為を努力と本人が感じていない場合もあり、家庭環境にも大きく支配されると感じた。
例えば家族との話題が、ニュースの時事問題や政治の話をする割合が高ければ高いほど、幼い頃から勝手にインプットされる。
(私の場合はコレが大きかった)
ごく稀に、教科書を一度読んだだけで覚えてしまうという特殊能力を持つ人もいるが、それは今話している努力とは種類が違う。
ただし、どれだけ努力をしても越えられない壁が存在し、ぶち当たる時が来る。
98%くらいまで努力し続けて、最後の一滴、ひとしずく、これがよく言う才能やその人のセンスなのかもしれないと生意気にも感じていた。
数学なんてただのセンスなんだよ、と大学時代ストレスが溜まると毎夜数学の問題集を解きまくっていた楓がよく言っていた。数学に対するセンスを私は持ち合わせていなかった。
あらゆる方面から試行錯誤し、努力しても越えられない壁にぶち当たった時、それをヒョイと乗り越えることができるのが、センスなのかもしれない。
話が脱線してしまったが、高3になって1教科だけ特化する事ができたのも、やはり教科担任の先生のおかげでもあり、二言目には政治の話をしていた祖母の刷り込みのおかげだろう。
現代においても『女は政治の話なんかするな』という人間が昔からある一定数存在する。
『政治に不満があるなら選挙に行ってから文句を言え!』『女でも教育は受けるべきだ』と唱え、母にも叔母にも私にも教育を施した祖母には感謝しかない。
小学生の頃から、帰宅すると毎日国会中継ばかりかかっていた。わけも分からず一緒に見ていたが、全ての始まりはそれだろう。
そんなわけで、成績に関してはやっと推薦入試のスタートラインに何とか立つところまできた高3の1学期は終わりを告げた。
https://note.com/kota1124/n/ndc147043c1b4