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【退院後、何もできない自分が思うこと】
この夏は壮絶だった。
7月〜8月にかけて、ひと月の間に2度も入院してしまった。
前述しているように、1度目は精神病院の閉鎖病棟に。
退院して家に帰るさなか、最寄駅の果物や綺麗なタオルを見てはまずひと泣き。
体力が落ちすぎてたまらないので、私から滅多に行こうとしない焼肉に相方と行った。
仕事も全てなくなり、家でゆっくりしていたのだが、原因不明の高熱と、顔がパンパンに腫れて見るも無惨な姿になり、別の総合病院に緊急入院したのが、その2週間後。
高熱は39.6度まで何度も上がり、ロキソニンも効かない。それが続いた3日目の朝、鏡を見ると自分の顔か⁈と思うほど額から首にかけて腫れ、痛痒く、左目が塞がって目が開かない。
救急車で搬送され即入院、1日4回の抗生剤の点滴を受けながら、耳鼻科、内科、皮膚科、リウマチ科、幅広い科の医師に色んな病気の可能性を疑われ、様々な検査をするが、全て結果はマイナス。
膠原病や血管炎の疑いもあったが、検査結果が全て出るのに数日を要した。
血液検査の結果、炎症反応が高すぎたので、抗生剤の点滴を打ちまくりながら、次第に熱も腫れも痛みも軽減していった。
どの医師も首をかしげたまま、病状が回復したと同時に退院し、今に至る。
結局何だったのか、医師も私も周りもサッパリ分からない。
2度目の退院から一週間、ほとほと疲れ果て、台所でお米を研ぐのもフラフラ、猫たちのトイレ掃除をしてひと息、特にお風呂はめちゃくちゃ体力を要した。
精神科の主治医も驚いていた。
10日ほど姿を見せないと思っていたら、また入院していた…なんて話しをしながら、今後が不安であること、どうすれば良いのか分からない、焦る気持ち、2度の入院は驚くほど体力、気力全てが低下し、LINEの返信ひとつにも一喜一憂…頭が働かない等…。
『先生どうしたもんか、何もかもしんどくって…想像よりダメージ大きかったです。』
『そりゃあなた、ひと月の間に2度も入院したら誰でもそうなるよ…災難だったね…きっとね、ストレスとか色々、免疫不全になってたんだと思うよ…。もう今は何も考えず、ゆっくりね…元に戻るのに2倍から3倍期間かかるからね…何もしなくていいから、ゆっくりしてちょうだい!』
『とは言ってもこの夏で全ての仕事を失ってしまい、2回も入院して相方にも迷惑をかけ…不安なんです。』
『あのね、今のあなたはコンディションの回復が最優先なの、仕事はオプションなんだよ、カラダあっての仕事なんだよ!』
『……仕事はオプション…なんですか。』
『そう、今までのあなたはきっと無理してでもやってきた。心身ともに健康、その上で仕事ができる。順序が逆になってた事、あると思うよ?』
『…かもしれませんが…。』
『ほら、僕だって患者さんに毎回ベストな状態でフォーカスしたい。そのために、煩わしい事やしんどい事はできるだけ避けて通ってるの!
僕は医学部しか出てないから経営学部の事は学んでいない。医者でもあるけど個人事業主なのね、メンドクサイこと、苦手な事は信頼できるスタッフや税理士さんにぜーんぶお任せしてるワケ。
僕は、結婚もしてないし持ち家も子どもも居ない、自分で選んだ道だけれど、煩わしいことはできるだけ避けた、これに限る。
じゃないとホラ、僕が病気になったらきちんと患者さんと向き合えないでしょう?』
『…前も言われてたけれど、そうなんですね…自分にとって煩わしい事、しんどい事、避けていいんですね……』
『そう!今のあなたは、心やカラダが喜ぶ事、嬉しい事、楽しく感じる事をムリのない範囲でやることが課題ね。
ついホラ、何でもやりすぎちゃうからほどほどにね…』
杉浦先生のコトバには説得力があった。
いつだったか、『若い頃の苦労は買ってでもしろ』と昔よく言われていた。
煩わしかろうが、めんどくさかろうが、しんどかろうが、なるべく避けて通らず自分で対処してきたつもりだが、いつも心身どちらかをぶっ壊してきたではないか…。
人に何かやってもらうのも苦手だった。
誰かに何かをお願いするのが申し訳ないと思い、抱えきれないほどの荷物を背負って生きてきた時期も多々ある。
杉浦先生に言われてハッと気づいた。
自分にとって煩わしいことや、メンタルを削るアレコレ、手放していいんだ。
それをずっと『逃げ』だと思い込んでいた。
もっと楽に生きたい。
私が大人になって手放したモノのひとつに“家事と介護″がある。
18で実家を出るまでに、死ぬほどやってきた家事労働と介護地獄。
一生分やり尽くしたと言っても過言ではないくらい、小さな頃から真面目に、時には反発しながら、殴られながら怒号を飛ばされながらやり続け、それらは当たり前の事だと思っていた。
(過去記事:ヤングケアラー参照)
1人暮らしを始めてから誰かと付き合ったり、結婚してからも、それらは最低限しかやらないと決めた。できる方がやればいい。
それらを押しつけてくるような男との付き合いは徹底して避けた。
18歳までにやり過ぎた反動で、大人になってからほとんど何もしなくなった。必要最低限の事しかしない、他の家事は気が向いた時だけする。
それで困った事も、とり立ててなかった。
同世代のほとんどの友人がしている子育て。
私に子どもはいないので育児はしない。
その代わり実家では、常に誰かの介護をせねばならない状況の者が居て、その面倒を、介護を小さい頃から献身的にしてきたつもりだ。
なので、家事、介護は20代の前半くらいまでの間に全て“卒業″したと自負している。
世間の同世代の人が今している事を、遥か昔に私は終わらせただけ…そう思うようにしている。
仕事、人生の中で納得のいかないモヤモヤ、SNS、人間関係、それらは全て、今の期間お休み…もしくは回避していいんだと気づかされた。
いつも『何かしなきゃ自分がダメになる』と強迫観念にとらわれるかのように、自分を追い込み、自分で自分を縛り付けていた。
人生の休養期間か……休んでいいんだろうか。
家から3分の距離に住む、チカさんと言うセレモニー奏者のお姉さんが、この夏の入退院の2回とも、たくさんの料理やお菓子をテイクアウトしてくれ、“快気祝い″として私の家を訪れてくれた。
精神病院に入院なんかして、きっとリアルの友人も離れていくだろう…と思っていたが、チカさんは違った。
お互いにおきた事をアレコレ喋りながら、チカさんとワインを3本空けた。
チカさんは食べっぷりも飲みっぷりもいい、見ていて気持ちがいいくらいだ。おまけにタバコも吸う、私と相性が良い。
チカさんとは、今年の春にあった公開レッスン企画の聴講の仲間として知り合った仲だが、私がXから消えた後、行きつけのbarまで探しにきてくれた人だった。
縁というものは、どこに転がっているか分からないものである。
セレモニー奏者の彼女は、いつも黒い服装をしている。ピアノ科を出て都心に居た頃、セレモニー奏者になるため、池袋まで半年間研修に通い、晴れて奏者となっと言う。
お互いの人生の話を聞いたり話したり…
ワイン3本目の栓を抜き、酔っ払った私たちは、ウチにあるアップライトピアノで“2人弾きあい会″をした。
学生時代勉強した、イタリア歌曲集の楽譜を引っ張りだして懐かし〜!と言いながら歌ったり、まるで学生の頃に戻ったかのような時間を過ごした。
チカさんはお客さんからのリクエストに応じるため、膨大な曲のレパートリーを持っていた。
クラシックからポップス、セレモニーで使われる定番のBGMの曲まで幅広い。
自分の家にあるピアノを誰かが弾いてくれる事は、これまでの生徒ちゃん以外に滅多になく、家のピアノがどんな音がするのか、どんな音色なのか、チカさんの美しいタッチを間近で見たり、あるいは遠くから耳を澄ませて聴いた。
チカさんの弾く、ドビュッシーの『月の光』は、思わず何かが込み上げてきて鼻の奥がツンとした。
人の涙を誘う音だ。
ピアノを2ヶ月以上触れなくなっていた私に、自分の家にあるピアノで、誰かが弾いて聴かせてくれるほど嬉しいものはなかった。
『今度はイタリア歌曲集とコンコーネもやろうか?連弾もしてみたいね、やろやろ!』
と、2人で大騒ぎしていたら夜になっていた。
私の体調が完全に回復したら、家も近所で酒も強く頼もしいチカさんと、ゲイバーにリベンジしに行こうと約束した。
(私がこよなく愛する行きつけのゲイバーに1度2人で行ったが、その時は飲み足りなかった)
フォトグラファーの友人も、博識ハルキストくんも、とても正義感が強く、最後まで私と共に闘ってくれ、温かいメッセージをくれる。
フォトグラファーの友人とは『メンヘラでもいいじゃん!メンヘラ上等!』とLINEをし、久しぶりに爆笑した。
もちろんココに書いていない、数少なくなったピアノ界隈の友人も、励ましのDMや気遣いを示してくれ、それには感謝しかない。
ただ今の私は、毎日コロコロ気分が変わり、泣いたり笑ったり情緒不安定なことに違いなく、明日のメンタルのお約束なんて誰にもできない。
ジェットコースターみたいな人生に振り回される相方も気の毒なもんだ。
誰かが言っていた…社会軸でも相手軸てなく、自分軸で生きてもいいんじゃない?
40代も半ばにさしかかった今、この夏のことを悔やまないよう、ただ今はそっと、心穏やかに眠れるよう祈りながら、
ゆっくりでいいからどうか回復しますように…。
私が傷つけてしまった人、許せなかったひと言、お互いに傷つけ合いボロボロになってしまったかもしれない人にも思いを馳せながら。
どうか、どうか想いが届きますように。