私のメンタルヘルスを支えてくれる考え方
1年間、ムードトラッカーをつけたら超ハッピー野郎だということが判明した私。
自分が大好きな旅を続けられる生活というのが大きな要因ではあるのですが、自宅にいる時も年中ご機嫌に過ごせているのは、
仕事のストレス < やりがい
という不等式が成り立っているからというのも大きいです。
若い頃は大きなことを成し遂げたり”デキる”人に憧れていた節がありましたが、年を重ねるにつれ、己を知り、「私はそっちじゃないな」と良い意味で諦めがついたことで、人生を心から楽しめるようになったと思います。
日本ではまだまだ労働に対する価値が高いなぁと思うことが多いです。
例えば、働くことは「社会に貢献すること」と捉えられているし、(例え十分資産があったとしても)早期退職=怠け者となんとなく白い目で見られる気がしませんか。
正直、私自身も人里離れた場所で住み、家はタイニーハウスという選択肢でローンもなく、生活コストもかからない生活で、その分稼ぐ必要もグッと減るから働く時間も少ない。そんな暮らしをしていると、知人から嫌味を言われることもある。「良い身分だね」と。
そう言われて傷つかないと言えば嘘になるけど、それ以上に、私にそう言わずにはいられないくらい彼・彼女が「働かざる者食うべからず」という価値観に支配されていて、そこから逃れる方法なんて自分にはないと思い込んでいるのだろうなと労働観の根深さにぶち当たります。もっというと、労働観の奥に隠れている「我慢」に対する美徳に。
常識とは大多数の偏見である
「残業も多いし、給与も少ないし、ツラい。でもローンもあるし、こどももいるし、辞めるわけにはいかない」とか
「この人と本当は離婚したい。だけど、離婚しても私一人で食べていけないし、私が我慢すればいいだけ」とか
「いじめられてて学校に行きたくないけど、学校に行かないなんて考えられない」とか
何を犠牲にするのかを考えた時、一番最初に自己犠牲を選択する人がすごーく多い国じゃないですか、日本て。
でも果たして本当にそうなのかな。
自己犠牲ってもしかして一種の思考停止状態なんじゃないかな。
そう思わずにはいられません。
だって、自分を「犠牲」にするのではなく「信頼」すれば、他の選択肢に光が当たるからです。
私は今の仕事が好きだし、夫のことも大好きだからこれからもずっと一緒にいたいし、今住んでるこの辺境の土地もすごく気に入っているけど、「何があっても絶対離れてはいけない」とは思っていません。
別に自分のことを特別スキルがある人間でもなければ能力が高いとも思いません。
だけど、自分に対する信頼感は結構あります。例えパートナーがいなくても、稼ぎが少なくても、この土地で住めなくなっても、「不幸だ」とは思わないです。その状況で楽しむ術が自分にはある、と信じられているから。
仕事なら最悪コンビニで働いてもいいし、夫も万が一浮気なんてされたら多分即離婚して一人を謳歌するかもう一度パートナー探しに心躍らせるかもしれないし、自然豊かなこの土地があまりに不便に感じるようになったら躊躇なく引っ越して、新しいまちや家にワクワクするだろうと思える。
同じように
学校に行かなくなっても、YouTubeで勉強できるし、好きなプログラムに熱中して最短でプログラマーになるかもしれない。
子どもがいるから別れられないと思っていた夫と離婚したら、行政の母子自立支援の制度を使って学校に行って専門職の資格を取って新しいキャリアが開けるかもしれない。
今の仕事を辞めたらどこも雇ってくれないと思ってた会社を思い切って辞めたら、家賃の高い東京に住み続ける必要もなく、地方に移住できて家族の時間も増えるかもしれない。
「こうしなければならない」と思っていることのほとんどは、現代社会が作った秩序を保ちやすくするための壮大な虚像でしかないとすら感じてきます。
もし、何かを続けたくないけど、続けないといけない気がして我慢している人がいるなら、止めたら起こると想像しているネガティブな未来と同じ確率でポジティブな未来もあるということを思い出してほしいです。そしてその確率は相手や組織や学校のような「変わらないもの」ではなく、自分自身に委ねられているということも。