お母さんといっしょに死のうか?

1994年(いくこくるしい)から27年。

「お母さんといっしょに死のうか?」
と息子二人を車に乗せて運転しながら言ったそうです。

うつ症状真っ只中だったので 言った私は記憶に無いのです。

ロサンゼルスにいる二男が帰国した時に言いました。
「お母さん、覚えてる?
 どしゃ降りの雨が降っててさ~
 お母さん、俺をスイミングに迎えに来たんだよね。

 お母さん、ワンワン泣きながら
 一緒に死のうかって言ったんだよ。」

言われて思い出したのは
後ろの座席で
「俺、10年しか生きてないんだよ・・・」
と 後部座席で身を丸めていた彼の姿。

長男に「お母さん、俊にいっしょに死のうかって言ったんだって」
 と言うと
「俺も乗ってたよ!」

どうしたら 少しでも楽に生きられるか???
直感:薬ではないだろう
   私の生き方と関係しているはず・・・

模索する中で出会ったのが 
野田俊作著:勇気づけの方法 (アドラー心理学を語る4)
と内容がほぼ同じの「勇気づけの家族コミュニケーション」(絶版)

読んで カルチャーショックを受けました!
①感情を感じても良いんだ・・・
 押し殺すもの、表現してはいけないものと
 幼い頃から 誰に言われたわけでもないのに 
 思って生きてきた
 特に 怒ってはいけない、怒りは出してはいけないと・・・
②自分が決意した!
 「姑が強いから 私は従うしか無かった」
 と思い、相手が悪いと信じて疑わなかった。
 「従うしか無いと、決意した自分がいた!」
 
 姑:今、駅に居るんだけど
   バスが行っちゃったのよね。
   30分次のバスが来ないのよ。

 私:電気屋さんが来るのを待っているんです。

 姑:でも、次のバスを待つの大変なのよね。
   買い物したから 荷物もあるのよね。

 私:じゃあ、迎えに行きます。

今から思うと
選択肢はあったのに 思いつかなかった!
・30分、駅前の喫茶店でお待ちになっては?
・タクシーを使われては?
・電気屋さんが来てから 迎えに行きます。


すぐ実践しました
「お母さん、
 アドラーの本を読んで
 今まで間違っていたって分かったの。

 口を出し過ぎると
 責任感と自立心が育たないんだって。
 ごめんね。
 これからは 自分のことは自分で決めてね。

 朝は 起こさないから
 目覚ましで 自分で起きてね。」


朝が 静かになる!
ふと気づくと 朝が静かでした。

うるさかったのは 自分の声だったんだ!!!!!
勇気づけ実践のスタートは ここからでした。

お母さんとお父さんが離婚するのなら 僕はお母さんの子になる
私が まだ離婚を考えてもいない時に 二男が言ったのです。
「良いよ」
としか言えませんでした。

「お母さん、お父さんと離婚するなら 俊はお母さんの子になるんでしょう。
お父さんが一人になるから 僕はお父さんの子になるからね。
お父さんの子になっても 僕とお母さんは親子でしょう?」

長男の言葉に
「良いよ、そうだよ」
とだけ答えたリビングルームの光景が浮かびます。

二男に 聞きました
数日前、二男夫婦とzoomで1時間ほどオシャベリタイムを持ちました。
話の流れの中で 聞いてみました。
「あの時、どうして離婚すると思ったの?」

「テーブルのイメージがあるんだよね。
それまでは大きなテーブルで 食事をしてたんだ。
鍋とかいろんな食べ物が乗っていたんだよね。

それが何も無くなるんだよね。
テーブルだけになったんだ。

感じたんだよね。
もう あの頃は帰らないな~って。」

大人の今、小5の自分にどんなことを言いたい?
セラピーモードで 聞いてみました。
「何もないよ。
 子どもの自分が
 ‟I'm ready to go forward”
 って言ってるよ」

「強いんだね。
 私は 母として小5の君に言いたいよ。
 卵焼きを上手に作ってくれる良い奥さんに出会うよ。
 大丈夫、
 君は 幸せになれるよって。」
※二男の妻は アメリカ人。
 彼女は和食が好きで 少しずつレパートリーを増やしているそうです。

英語で話していたので 息子の妻も黙って聞いていてくれました。

勇気づけは うつ症状真っ只中でも実践できます
・課題の分離:子どものことは 子どもが決める

・子どもが決めたことが 自分の考えと異なっていても 受け止める

・子どもの決めたことが失敗に終わっても 勇気づける

うつ症状の時は 否定的な思考をグルグル回っていました。
他のことは考えられないのです。

「誰の課題=課題の分離」
を受け入れやすかったように思います。
信じて やってみよう!
と 素直に思いました。

入れ墨彫師になりたい!
勇気づけを実践していたから言えた言葉。
二男が タトゥーに興味を持った時期がありました。
「お母さん、俺 彫師になりたい!
 日本に帰って この彫師に弟子入りして
 将来は海外でタトゥーイストになる」

「タトゥーを入れるのは
 自分の精神的な支えの意味もあると思う。
 日本の入れ墨の技術で
 海外でタトゥーイストになれば
 きっと売れっ子になると思うよ」

それから半年も経たないうちに・・・
「お母さん、俺、ジャズベーシストになりたい。
 チャーリー・ヘイデンがカルアーツ芸大で教えているんだ。
 チャーリー・ヘイデンに習いたい。」

これも 受け入れました。

「勇気づけの対応」を知らなければ 次のような言葉を言っていたと思います。

「この間は タトゥーイストって言ってたでしょう!
 何ころころ変わってるの!
 
 チャーリー・ヘイデンなんて有名な人に習うなんて
 無理でしょう!」

その後、カルアーツ芸大に行き、
願いが叶って 故チャーリー・ヘイデン氏の個人レッスンを受けることが出来ました。
この時ほど 「勇気づけの対応」を学んでいて良かったと思ったことはありませんでした。
親には見えない能力を子どもが持っていたのです。
息子のサイトです

勇気づけの実践を続けて27年後に得たもの
・セラピー、セミナーで変化を教えて下さる方々とのつながり
・親子二代のトラウマからの回復と家族関係の好転
・クライエントさんの数人が心理大学院で修士を終えられたり 目指しておられること
・我孫子市 青空の会の方々とのつながり
・桶谷式母乳マッサージの指導者の方々とのつながり
・友人達とのより良い関係
・トラウマセラピーの数々を海外でも日本でも学ぶ
 トラウマを体験し
 アドラー心理大学院に行く決意をし
 英語を聴くことができるようになったから可能になった

・長男夫婦との良い関係
・孫たちとの良い関係
・二男夫婦との良い関係
・国際再婚した夫
・夫はマギル大学語学学校の英語教師だったので
 私、長男妻、孫達の家庭教師
・長男妻が 心理士を目指していること
・交感神経が活性化することがほとんど無い生活
死ぬときに 良い人生だったと思いたい
人生に「死」があることを知ったのは
16才でした。
親しかったクラスメートが
突然の事故で亡くなったのです。
涙は 1週間止まりませんでした。
高校を卒業するまで「死」を考えない日はありませんでした。
学校の図書室の司書の方にお願いして
「死」という文字の入った本を買ってもらっていました。

離婚の決意は
アドラー心理学の「勇気づけ」を実践していく中で
少しずつ「自分で決める」自信がついていったのです。

そして
「死ぬときに 良い人生だったと思いたい」
につながりました。

私の努力するエネルギーを 元夫や元夫の家族に使うよりも
もっと役に立つことに使えるかもしれない
という思いが浮かんで来たのです。

40代で離婚を決意した時は
仕事も 貯金通帳も無く
ほぼ無一文状態でした。
決意してから働き始めました。

40代:週末、24時間続けて働いていた時期が 3年ほどありました。
50代:大学院で学び始めたのは 49才でした。
60代:ひたすら働きました。
70代:身体がOKを出すかどうか 身体と相談しながら
   美味しいものを食べて
   心地よい関係を大切にしていきます。

何も無いところから出発したので
身体だけ健康であれば
何とかなる
と思っています。
最悪の時は 公的扶助を受けようと思っていました。

トラウマセラピーを受け始めたのは
63才、ソーマティック・エクスペリエンシングの学びを開始後です。

アドラー心理学(認知の世界)では見えて来なかった
脳と身体の感覚の世界を知りました。

勇気づけの実践では消えなかった
不安感から解放されてきました。

SSP:Safe & Sound Protocol (リスニングセラピー)を受けてからは
筋肉に残っていた緊張から解放されつつあります。

身体がNo ということはしない・・・
その思いを強く感じるようになりました。

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