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Midnight #1 「最初の数字の罠」 真夜中の賢者

「全てを失うことになるかもしれない」

男はグラスに映る自分の顔を見つめていた。 取締役会まであと15時間。この数字が全てを決める。

提携先から示された予算額は、予想のちょうど半分。 その数字の前で、100人の雇用と、15年かけて築き上げてきた事業の未来が、音を立てて崩れようとしていた。

十一月の雨が、銀座の街を濡らしている。 男は足を止め、古びたビルの前を見上げた。

「ここなら、何か答えが見つかるかもしれない」 かつて上司がそうつぶやいた場所。その記憶を頼りに、地下への階段を降りていく。

ドアを開けると、琥珀色の照明に包まれた静かな空間が広がっていた。 ジョン・コルトレーンの「My Favorite Things」が、柔らかく流れている。

カウンターの向こうで、一人の男性がグラスを磨いていた。 白いジャケット姿の50代。切れ長の目と端正な顔立ち。その佇まいには、どこか人を魅了する不思議な存在感があった。

「いらっしゃいませ」

その声には、深い静けさが漂っていた。

2

カウンターには、数人の客の姿があった。

窓際では中年の男性が一人、グラスを前に資料とにらめっこしている。着替えたばかりのスーツは高級そうだが、その表情には疲労の色が濃い。

反対側では、ネイビースーツの女性が、赤ワインを前に深いため息をついていた。「やり直しですか」という言葉が、小さくこぼれる。

男は重たい足取りでカウンターに近づいた。 革靴から、小さな水たまりができている。

「申し訳ありません」 男は小さく呟いた。 「締まらない格好で」

マスターは黙って、温かいタオルを差し出した。 そして、グラスに琥珀色の液体を注ぎ始める。氷は入れない。

「取締役会の資料、もう一度見直されますか?」 マスターの静かな声に、男は思わず顔を上げた。

「どうして...」

「表情を見れば分かります」 マスターはもう一つグラスを取り出しながら、続けた。 「大切な何かと、数字が、噛み合わない。そんな時に、人はそういう顔をする」

「100人の雇用を守るための新規事業です」 男は一気にウイスキーを喉に流し込んだ。

「私たちの会社には、『技術』がある。確かな技術と、それを支える優秀な技術者たち」 男はポケットから手帳を取り出した。 しわになったページには、赤い印が付けられた数字が踊っている。

「それなのに、提携先から示された予算は予想の半額。『業界の相場です』と、妙に自信ありげに」

マスターは黙ってグラスを下げ、新しいグラスを置いた。 そして、カウンターの奥から一本のワインを取り出す。

深い色合いのボトルに貼られたラベル。 シャトー・マルゴーの2015年。

「面白い話をお聞きになりますか?」 マスターは、デキャンタにワインを移し替えながら言った。 「このワイン、先週と今週で、まったく違う評価を受けたんです」

窓際の男性が、さりげなく耳を傾け始めた。

「先週の金曜日、このワインは40万円で売れました」 マスターは、デキャンタを光に透かしながら続ける。 「ところが今週月曜日、同じワインが15万円での取引となった」

「100人の雇用を守るための新規事業です」 男は一気にウイスキーを喉に流し込んだ。

「私たちの会社には、『技術』がある。確かな技術と、それを支える優秀な技術者たち」 男はポケットから手帳を取り出した。 しわになったページには、赤い印が付けられた数字が踊っている。

「それなのに、提携先から示された予算は予想の半額。『業界の相場です』と、妙に自信ありげに」

マスターは黙ってグラスを下げ、新しいグラスを置いた。 そして、カウンターの奥から一本のワインを取り出す。

深い色合いのボトルに貼られたラベル。 シャトー・マルゴーの2015年。

「面白い話をお聞きになりますか?」 マスターは、デキャンタにワインを移し替えながら言った。 「このワイン、先週と今週で、まったく違う評価を受けたんです」

窓際の男性が、さりげなく耳を傾け始めた。

「先週の金曜日、このワインは40万円で売れました」 マスターは、デキャンタを光に透かしながら続ける。 「ところが今週月曜日、同じワインが15万円での取引となった」

「同じワインがですか?」 男は眉をひそめた。 「何か問題でも?」

「いいえ」 マスターは首を振る。 「同じワイン専門店での出来事です。状態も完璧。買い手も、どちらもワインの目利きと言われる方々でした」

マスターはゆっくりとグラスにワインを注ぎ始めた。 深紅の液体が、グラスの内側をなめらかに伝う。

「違いは、ただ一つ」 マスターの声が静かに響く。 「金曜日、このワインは100万円を超える超高級ワインたちに囲まれていました。ロマネ・コンティ、ラフィット・ロートシルト...そんな顔ぶれの中に並んでいた」

男が息を呑む。

「一方、月曜日は」 マスターは二つ目のグラスを用意する。 「入荷のタイミングで、たまたま2、3万円台のワインに囲まれていた」

窓際の男性が、小さくため息をついた。 「なるほど...」

「人は必ず、最初に示された数字に引きずられる」 マスターの声には、確かな重みがあった。 「100万円のワインに囲まれていれば、40万円という価格が『妥当』に感じられる。3万円のワインの隣では、15万円でも『高額』に映る」


「まさか...」 男の目が大きく見開かれた。 資料の中の数字が、違って見え始めていた。

「先方は最初から半額という数字を提示した」 マスターは三つ目のグラスを取り出す。 「そして『業界の相場です』という言葉で、その数字を正当化した」

「アンカリング効果」 窓際の男性が静かに呟いた。 「最初の数字が、その後のすべての判断の基準になってしまう」

マスターは透明な液体をグラスに注ぎ始めた。

「しかし」 マスターの声に力が宿る。 「このワインには、もう一つの物語があります」

「もう一つの...?」

「価値とは、見る角度で変わる」 マスターは、透明な液体に深紅のワインを重ねていく。 「時に、まったく新しい文脈で語ることで、本質的な価値が見えてくる」

グラスの中で、二つの液体が美しく溶け合っていく。 夕焼けのような色合い。その光景に、男は見入っていた。

「あなたのプロジェクトは、単なる予算の問題なのでしょうか」



男は黙って資料を開いた。 そこには市場分析のデータが、びっしりと並んでいる。

「このプロジェクトが実現すれば...」 男の声が、少しずつ力強さを増していく。

「5年で市場規模は3倍になる。新しい技術基盤が確立されれば、業界のスタンダードにもなり得る」

マスターは完成したカクテルを、そっと差し出した。

「では、その文脈で考えてみましょう」 マスターの声が、静かに響く。 「100人の雇用維持にかかるコスト。リストラによる退職金、採用費用、失われる技術力、士気への影響...」

男は資料に新しい数字を書き込み始めた。 手帳の赤い数字が、今は違って見えている。

「そして、市場の可能性」 マスターは続ける。 「新技術による競争力、シェア拡大の可能性、ブランド価値の向上...」

「なるほど...」 男のペンが、踊るように動く。

「取締役会では、こう切り出してみてはどうでしょう」 グラスの中で、カクテルが神秘的な色を放っている。

「このプロジェクトは、5年で100億円規模の市場を創出する可能性を持っています」

「そして、それを実現できるのは、現場の技術者たちなのです」 マスターの言葉が、バーに響く。

男の表情が、明らかに変わった。 迷いの色は消え、確かな光が宿っている。

「相手の『アンカー』に引きずられるのではなく」 マスターは静かに続けた。 「あなたが、新しい物差しを示すんです」

窓際の男性が立ち上がった。 「勉強になりました。私も明日の商談、少し考え方を変えてみます」

外では、雨が上がっていた。 街路樹の葉が、夜風にそよいでいる。

男もカウンターから離れようとした時、 「このカクテルは?」と尋ねた。

「『パースペクティブ』」 マスターは微笑んだ。 「視点が変われば、世界は変わる。このカクテルは、そんな瞬間を表現したものです」

「失敗しても、あなたは正しい選択をしたことになる」 男が去り際、マスターが静かに付け加えた。 「なぜなら、一つの数字に惑わされず、本質的な価値を見据えたのですから」

男は深く頷き、重厚なドアに手をかけた。 背筋が、自然と伸びている。

(第1話 完)

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