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「書くことは世界を狭くすることだ」

考えたことを文章にするのって難しいですよね。
僕はnoteで毎日更新を始めて、260日が経とうとしているのですが、いまだに思ったことをそのまま文章にできていません。

なぜ、思ったことと文章に、ここまでの差があるのだろう。
頭の中の気持ちをそのまま文章にできたらどれだけラクだろう。

いや、頭で思い浮かべたことをそのまま文章にしたら、多分それは読めたものではなくなるような気もする。
なぜなら、頭の中で考えていることは、全くもってめちゃくちゃだから。

  • 今日のご飯は何にしよう

  • あぁ、仕事だるいな…

  • そういえば、あの人は今どうしているだろう…

などといったことが雑多に頭の中を巡っているのが人間だ。
そんな考えをそっくりそのまま文章にしたらどうなるか。

わけがわからない文章になるだろう。
おそらくそれは、他人が読んでも意味不明だし、いざ自分が読んだところでも意味がわからないものになる。

それは文章ということになるのだろうか。
ならないかもしれない。

なぜなら、文章は読み手がいてようやく成り立つものだから。
最低でも自分が読んで意味がわからない文章なら、それは文章にはならないのかもしれない。

書くことは世界を狭くするもの

『書くこと世界を狭くするものだ』

たしか、田中泰延さんという、作家さんが自身の著書で言っていた言葉だ。

ちなみに田中泰延さんの書いた著書、『読みたいことを、書けばいい』はかなり面白い。
この場合の面白いは、単純に笑える本ということだ。
笑える上に、ライティングの基本マインドを勉強できるいい本です。

書くことは世界を狭くする。

一見なにをいっているのかわからない言葉だが、考えれば当たり前。

その日僕は住み馴れた故郷をはなれて、東京にやってきた。

こんな文章があるとする。
この文章には、ある人物が東京にきたことを指している。

この時点で、この文章の中の人物は東京という小さなかごに入ったことになる。
そう、世界は狭くなったのだ。

文章を書くことで、自分の世界を再認識する

書くことは世界を狭くするということは、これを応用することで、いつも考えている雑多な考えをまとめることができるのではないか。

僕は毎日文章を書いているのだが、たしかに、

「あれ?僕はこんな事を考えていたのか!」

と自分の文章を改めて見て驚く時がある。
それはもちろん、良い意味でも悪い意味でもあるのだが、新たな自分を再認識するようで面白い。

文章を書くのは、自分を見つめるためにもいいものかもしれない。

今日も雑多な文章を書いて見ました。
さて、新たな自分を見つけられたかな…。

では、お疲れ様でしたー。


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