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鬼の首を取ったかのように怒る人の気が知れない、という話

僕は人の失敗に寛容だ。

「心が広いんです。誰にも優しくする紳士なんです!」ドヤァ

なんていう気はない。
しかし、本当に誰かの失敗には寛容だ。

なぜか。
僕が失敗する人の気持ちが痛いほどわかるから、というのがある。

たとえば、報告なんかでも。
仕事って報告が重要じゃないですか。

報告がしっかりしていれば、大体のことはなんとかなるじゃないですか。
…いや、それだけではないのは重々承知でいってますけど、報告がしっかりできるかどうかでその人の優劣を決めてしまう事って結構あります。

どうしてか。
報告もなんだかんだコミュニケーションだからでしょうね。

報告がしっかりできていれば、なんとなくコミュニケーションも取れた気がするし、
その逆で報告がしっかりできなければ、コミュニケーションもうまくいかない気がするもんです。

だから、仕事では報告の重要さは高い。

んで、そんな報告ですが、僕はあまり得意ではありません。
なぜ得意でないか。喋るのが苦手だからですね。

だから、失敗しますよ。
報告、伝言、失敗しやすいです。話すのが得意ではないから。

「じゃあ紙に書いてみればいいんじゃない?」

なんて思う人もいるかもしれないが、紙にうまく文章が書ける人は、たいてい喋りもうまいもんです。
書くことと喋ることは違うという人は多いけど、僕はそうは思わない。

書ければ話せる。
話せれば書ける。

そんなもんです。
実際は両者に乖離はあるかもしれないけど、そんなもん。

話すのは抜群に上手だけど、書くことはめちゃくちゃ下手。

なんて人はいない。
いたとしても、

話すのは抜群に上手だけど、書くことは少し下手。

これくらいの差しかないわけです。
微差です。微差。

しゃべりと書くことに関しては、上手と下手が両極端に離れることはない。



それで、人の失敗ですよ。
人の失敗って許せますかね。

これ、人によっては「気がどうかしたんじゃないですか?」ってくらい失敗に対して怒る人がいますよね。
僕はその人に思う。マジか、と。

そこまで怒るくらいであれば、きっとあなたは素晴らしい人物で、絶対に失敗しないようなコンピューターのような人間なんですね、と。

いや、そんなわけあるか。
人間は失敗する。いや、コンピューターですら、時と場合によっちゃ失敗するだろう。

だから、よく怒れるな、と。
誰かに鬼の首でもとったように怒る人って、自分が失敗したときのこと考えてないのかな、と思う。

そうなんです。
結局こういった人って、自分で自分の首を絞めているような気がするんですよね。

これだけ怒るんであれば、自分もこれだけ怒られる覚悟がある人でいなくてはいけない。

しんどくないかな、と思う。
過剰な怒りは結局自分を追い詰めるんですよ。


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