スリラー小説の読書感想『隣の家の少女』ジャック・ケッチャム
読了後の虚脱感はハンパなかったです。
流れる川に隣接する田舎の景色は美しく、そこで語られる少年たちの青春劇は、映画「スタンド・バイ・ミー」を匂わせる叙情豊かな文章で語られていきますが、希望があるのは「表のスタンド・バイ・ミー」のみ。
本著を絶賛しているスティーブン・キングもあとがきで語っているように、今作は、絶望の未来が約束された「闇のスタンド・バイ・ミー」です。
大人になった主人公デイヴィッドが回想する、12歳の頃にあった、2歳年上の少女メグとの出逢い……それは、甘くほろ苦くも切ないひとときでしたが、青春の輝きは、メグ姉妹を引き取った継母によって無惨に引き裂かれていきます。
継母のルースも最初は、女手ひとつで三人の男子を育て、隣家の少年たちをこころよく迎えていた、よきシングルマザーとして描かれていました。
しかし、事態は新たな家族の登場。
メグと妹のスーザン姉妹を引き取ったことで、彼女の人格にどんな化学反応が起きたのか?
もとより善良な姿として映っていた、シングルマザーは、初めから狂人だったのか?
「虚な目」をはじめ、ところどころ描写される、精神病の症状のような継母のふさぎこむ姿は、まるで彼女がやっている悪行の報いのようでもあります。
ルースの子供達の顛末を読むと、「血の呪縛」のような、精神病やら犯罪やらを起こす要因が、血によって起きる遺伝病のようにも見え、さらにそこに「強烈な体験」というトラウマが加わって、元からあった病気的な因子が表に出てしまう……そして猟奇的な犯罪を生む……ところまで考えさせられるラストでした(似たようなお話は、映画の「ザ・セル」にも出てきます)。
被害者であるメグも、悪に立ち向かうヒロインとして、美しく描かれているのですが……かえって、その善性がルースの邪悪さに火をつけてしまったのではないか……これは善と悪の戦いなのか?……なにか、彼女がこの事態から逃れるすべはなかったのか、と考えてしまいます。
作者のジャック・ケッチャムというペンネームは、処刑人から取られた造語ですが、その名に偽らざる情け容赦のなさで、少年と少女の間に芽生えた愛情らしきものをことごとく粉砕していきます(すべてはミスリードによって起こされる、最悪の結末ともいえます)。
本著を通じて、ケッチャムが最も描きたかったのは、「普通の人間にひそむ邪悪さ」であり、それは事件の中心的人物であったシングルマザーのルースが抱える暗闇だけでなく、ごく善良なデイヴィッド少年を通じて、我々読者は、他者への無関心と無力さ、自己保身によって最悪の事態をまねく、ガン細胞のようなわたしたち自身の暗闇を見せつけられます。
最後に、「読了後の虚脱感がハンパなかった」と書きましたが、どんな感じかというと、「第一次世界大戦で、日本兵が中国の民間人を虐殺して、その首を並べたまえで笑顔で撮影している」写真をみたときと似たような虚脱感でした(笑顔の奥底にひそむ底抜けの闇です)。
彼岸を超えた彼らにとっては、人の姿をしても、敵は人ではなく、それゆえにどんな残酷な行いでも容認できる、サイコパスな意思決定が行われているのでしょう。
願わくば、人間の善性を信じて、本著をただ「気持ちの悪い、胸糞がするスリラー」以上の教訓として心に留めておきたいと感じました。