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『658km、陽子の旅』観た記録と私の解釈

『658km、陽子の旅』
 鑑賞前はTwitterで、この「、(句読点)」なしで調べると、好意的な(もしくは絶賛の)感想しか見えてこなかったらしく、公式の宣伝で、私の好きなイニャリトゥ監督のコメントがあったので、「これは良作に違いない」と、劇場に足を運んだのだが、鑑賞後、たまたま「、」ありで検索すると、こちらのほうが、個人の正直な感想に近いものがちらほらあって、共感できたのはそちらの飾らない批評、ツッコミだった。
 だけどまあ、後者の方法で調べていたら、絶対に観たいとは思わなかった作品だったであろうから、誤って行って、結果的には正解だった。やはり自分の目で観て体験し、咀嚼し、解釈するまでは、わからないものだな、と思う。(解釈したあとでさえ、わかっているつもりのことだって往々にしてある)

 新作ジブリを見て以来、その作品に対する態度を保留していた頃に、ちまちまと他人(普段映画を見ていないであろう人たち)の感想を流し読みしたり、ジブリ映画に精通している人のネタバレなし鑑賞のためのガイドトークを聞いて、「素晴らしいな」と感嘆したり、小さくバズっていたnoteの記事に綴られた、とある人の、「宮崎駿」という「人となり」を一般人よりはずっと知っている博識な人から観た映画の解釈を読むにつけ、感動を覚えて、「同じ映画を観たはずなのに、感じることがこうも違うのか」と驚いたりした。

 芸術というのはまったく、観る人の目だったり解釈だったり背景だったり知識量だったりで、同じ作品が真逆の評価になりうるということを、ジブリ後に鑑賞した映画でも連続で感じていて、なにかこう、視点というものの曖昧さ故の切なさとか美しさとか、そんなものに思いを馳せたりしている。
 そこで本作なのだが、今回、自分の中で、目まぐるしく評価がジェットコースターのように変化した。そのことを、なるべく時系列に沿って、(体力の続く限り)書き出してみたいと思う。

 物語冒頭の、とある電化製品カスタマーサービスのチャットオペレーターの仕事(おそらく派遣)に勤める陽子。昨今、派遣業務のリモートワーク案件は、都市部ではさほど珍しくもなく、そうした設定に「現代社会」「世相」を反映していると感じたのは言うまでもない。

 少し映画の内容からは逸れるが、最近では珍しくもないこのような業務形態そのものの「無機質さ」というか、互いが互いに顔を合わせず、一人の人間であると言う前提、「個人」としての認識が稀薄なままにやり取りを重ねられるこうした仕事は、どこか違和感が拭えない。

 だから私は、コンビニの、とくにセブンイレブンのレジスターが好きではない。現金の取り引きさえ、客任せ、機械任せで、仕事をしている人間の主な役割は、ただバーコードをスキャナーで読み取ること。現代の数多ある支払い方法の簡便化も、「有り難さ」や「人とのやりとり」から、ますます遠ざかってしまっているように思う。

 話を映画に戻そう。そんな仕事(チャットオペレーター)を、陽子は、昼ごはんのレンチンパスタを調理しながら、ネットニュースを見ながら、ただただテンプレ構文でやりとりを重ねるが、顧客はその対応に満足するはずもなく、星0.5をつけて「時間の無駄だった、むかつく」という言葉を書き残し、立ち去った。それを見た陽子も、もう慣れっこなのか、鈍感になるよう努めたのかわからないが、死んだ魚の目でそれを見つめていた。
 陽子の唯一の楽しみといえば、サブスク動画配信サイトの海外ドラマを見ることだ。薄暗い部屋のなか、ベッドでノートパソコンごと横になり、暗い部屋で声をあげて笑ったりしている。
 しかし本当は、さきほど仕事で感じていたはずの「それ」を相殺(というよりも「なかったこと」に)するための手段もまた、巨大企業が対価として支払った「賃金」を元手にしたものであり、その「賃金」で支払ったべつの巨大企業の「サブスク配信サービス」なのだ。
 我々の生活は、どこまで行っても消費行動とつながることでしか成り立たなくなってしまったのか。
 そんなこんなを思ううちに、まず冒頭のこのシーンだけでも「これは、只者ではない感」を感じたのも束の間、従兄の玄関先への来訪により発覚する、陽子のあまりにも、あまりにもな「コミュ障具合」には、「当事者性」という意味では、調査が足りなかったのではなかろうか、と思いたくなるほど、過剰な演技が為される。
 この過度な演技に慣れるまで(気にならなくなるまで)、とても時間を要した。(脳内ツッコミを抑えるのに必死だった)

 ところ変わって、陽子が「旅」を始めるきっかけとなる、くだんのパーキングエリアでのはぐれ方は、まあ、ありえなくもないか(さほど不自然でもないか)と、とりあえず自分を納得させ、ている最中に、陽子が駅の高いところにある電光掲示板の路線図の行き先確認のため、手を伸ばして指を這わせる演技が、なんだかこれはイエローカード2枚目なのではないか、と不安視しつつも、所持金2,432円、当然ながら関東から東北まで電車を乗り継いで帰省することなどできるはずもなく、公衆電話をかけるに至ったところで、VAR判定の結果はイエロー取り消しに。

 だがしかし、ここの記憶が少し曖昧なのだが、陽子が公衆電話で東北の実家の親戚にCALLするも、受話器を取ったのが幼い子供で、ひとこと「大人の人に代わってくれる?」ということが言えず、なぜか意思の疎通が図れぬまま、電話は断念し、ヒッチハイクに切り替えたのは少々強引な展開のようにも感じる。

 だが、ここにきて、ヒッチハイクで人を捕まえるための、個室トイレでの声出し練習を始めたあたりで、とりあえずこの物語における彼女は「人前に立つと声が出ないほど、極度の人見知りコミュ障なのだ」という認識に頭を切り替えた。

 練習の成果かはたまた偶然か、むすっと膨れた不機嫌そうなおばさんに思い切って話を持ちかけると、二つ返事でいいわよと言われ、「OKされたとき」を想定していなかった陽子は、礼も言わず後部座席に飛び乗った。
 これほど無口で化粧もしてない荷物もない得体の知れぬ女を、車に乗っける、ということだけで、この不機嫌おばさんの肝っ玉の強さと懐の広さと大胆さで映画が一本撮れるのではないか、というツッコミはさておき、おかげで陽子は、はじめの一歩を踏み出せた。

 さすがは肝っ玉おばさん。次の休憩所で車外の寒空の下、陽子を置き去りにしたまま、自らは美味そうに蕎麦の贅沢なランチを頬張り、満面の笑みを浮かべていた。「若干サイコぎみなのかな??」と思うことで、陽子を乗せた理由にもなんとなく合点がいったところで、サイコおばさんは車に戻ると、今度は快活な声で「お待たせ! 行くよ」と再び陽子を連れ出した。
 なるほど、さきほど不機嫌だったのは腹が減っていたからか、と己を納得させつつ、飯の差し入れまでくれた肝っ玉おばさんは、調子が出てきて自分語りを始める。なるほど、ギブアンドテイク。自分の身の上話と陽子へのマウントを取りたい気持ちが多少あったのか。だからこれは乗車権取引だったわけか、と解釈することにした。

「私には、男もいない、子供もいない人生なんて、考えられないわあ」
 サイコのくせに月並みなことしか口走れないなら黙っててもらえますか? と言いたい気持ちを抑えつつ、「『パーキングエリアで幸せそうな人たち』を見ていると、なんだか腹が立ってこない? 事故ればいいのに〜。あなたもそう思わない?」などと持ちかけるこの人はやはり世間を生きれる人であり、大衆そのもの。

 ひとしきり自分の話を存分にして気分が良くなったところで、サイコおばさんはサイコな思いつきをする。「この冴えない娘を、便所しかない休憩所に置いていったらどうなるだろう」
「いいわよね、私、ここまでいいことしたんだもの」と聞こえてきそうな具合に。「最後に、金を貸してくれ」と頼む陽子をたしなめ、辺鄙な場所に置き去りにし颯爽と去る。
 そして場面は、陽子がいる辺鄙な場所に自ら降りてきた見知らぬ若い女のヒッチハイカーに移る。
 互いに全然車が捕まらない、どころか、車がその休憩所に入ってくること自体稀である。
 そんなこんなで、互いに少し近づき、一定の距離を保ったまま、ちょっとだけ親睦を深める二人。

 そしてここで、陽子がその見知らぬ若い女のヒッチハイカーから冗談混じりに「人間マフラー」と、軽く抱擁されるシーンで、目頭が熱くなってしまった。なぜ泣いているのかは、そのとき私自身にもわからなかった。劇場を出たあとも、パンフレットを読んだあとも、家に帰ってきてからも、あの涙のわけはわからなかった、のだが、吶々と、Twitterに感想のツリーを書いているうちに、ようやく気付いた。「陽子が人肌に触れたのは、いつぶりのことだったんだろうか」と、あのとき思ったことに。
 べつに陽子自身、その抱擁に特別なものを感じているふうでもなかったし、その後のヒッチハイカー女の悪ふざけにより、「触んじゃねえよ」とむしろ鬱陶しそうに払い除けさえした。
 だが、たとえ監督がそう撮ろうとしていなかったとしても、俳優がそう演じていなかったとしても、脚本家にそんな意図がなかったとしても、あのとき私の目に映った陽子に、「もう何年も人肌に、温もりに触れていない」という事実を、観るものに突きつけてくるだけの息詰まる何かが宿っていたように私には感じられた。

「陽子には、何かがあったはず」
 暗く重たいバックボーンが無ければ、「哀しむに値しない」「泣いてはいけない」と、自他に強いて、決めつけるようになっていたのは、いつからなんだろうか。
 その後の海辺のシーンで、過去の父親に暴力を振るわれうずくまる陽子に、「なるほどやはり、父親が暴力親父だったのだな、あるいは近親相姦か」などと思いを巡らせたが、物語終盤に語られる、陽子の独白の中に、何かを期待していた私は、すっかり肩透かしを食らった。

 陽子には、なにもなかった。ただ、ありきたりで、美談に仕立てるにはあまりにも華のない独白だった。
 そうだ、ちがう。だからこそ、陽子には、主人公感も、なにもないからこそ、そこに私自身を投影したのだ。
 こんなつまらない人生。つまらないほど単純な理由。このヒッチハイクを、積年の人生を通して、得た教訓は、たったのそれだけか? と。それはそのまま、私自身への失望であり自責であり自傷だった。
 あまりにも等身大すぎるからこそ、近すぎて気が付かなかった痛みだからこそ、感じることに鈍感になっていた。

 なにもなくても、いいんだよ
 特別である必要なんか
 ほんとうはないんだ

 そういう解釈をすると、この映画は、私にとって平凡でありきたりで特別な、ほかにはない作品となった。
 公式サイトは、人との交流によって陽子の固まった心が溶かされていく心暖まるロードムービー、のような謳い文句で宣伝しているが、私はそうは思わない。

 道中で出会った人たちも、いい人たちばかりではなかったはずだ。あの老夫婦にしたって、絵に描いたような親切さを見せるが、それは陽子がよそ者だから、深い関わり合いのない他人だからこそ、親切に振る舞えただけであって、田舎ではよくある話だが、身内になってみて初めて知るその土地という閉鎖空間が生み出す陰湿な空気によって、どんな人間の心も、どす黒く染まる。手を貸してくれたあの老夫婦がそうでない保証なんてどこにもない。
 東北の震災後の避難所生活での男たちと、それに媚びて生きてきた家父長制に守られた女たちが、若い女たちを虐げたことは、震災のノンフィクション小説で読んだことがある。
 あの長尺で撮られたフレコンバックの風景は、果たしてなんの意図もなかったというのだろうか。何億年先にまで禍根を残す、行き場を失った放射性廃棄物は、意味もなく撮られたというのだろうか。
 美談で終われないからこそ、人生なのではないか。心暖まる、などという言葉に集約されるほど、人生は、人間たちは単純ではない。
 そんなことを思った。

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