「言葉と歴史と文化」考02
ドニゼッティのオペラ
「ランメルモールのルチア」にも
同じように符丁となっている言葉がある。
二幕ルチアとエンリーコの場面、
アルトゥーロとの結婚を拒むルチアに
兄のエンリーコは
なぜバックロー家との婚礼を
急がねばならぬのかを説く。
「グリエルモが死んだ。
これでマリアがスコットランドの王冠を
被ることになるだろう。
私が属していた陣営は敗れたのだ。
この窮地から我々を救えるのは
唯一アルトゥーロだけなのだ。」
白水社のイタリア語辞書を編纂した
イタリア文学者の坂本鉄男氏は、
このくだりに対して
「グリエルモはウィリアム三世、
マリアは
メアリ・スチュアートのことらしいが、
台本作家が
史実を無視しているものと思われ、
ここでは歴史を考えないこと。」
と注釈を書いている。
確かにイングランド王ウィリアム三世と
メアリ・スチュアートでは
時代が違い過ぎる。
荒唐無稽と言えばそれまでなのだが、
「ウィリアム三世」や
「メアリ・スチュワート」の名前は
ヨーロッパ史において
知らぬ人のいないほどの有名な人物なのだ。
ウィリアム三世・・・
オランダ総督にしてイングランド王を継承し
イギリス・オランダの長き戦いに終止符を打った人物。
メアリ・スチュアート・・・
いわずと知れたスコットランドの女王、
イングランドのエリザベス1世と争い
最後は幽閉された後に処刑された悲劇の人物。
それぞれの「名前」に繋がるイメージは
ウィリアム3世=「プロテスタント」
メアリ・スチュアート=「カトリック」
生きていた時代はともかく、
宗教的な対立軸は明確だ。
これをオペラに当て嵌めるなら
エンリーコ&ルチア兄妹のアシュトン家は
プロテスタント陣営に属していたが、
彼らが推していたウィリアムが死んだことで
窮地に立たされることになる。
では、ルチアの恋人エドガルドはどうか?
1幕、ルチアとエドガルドの二重唱の中で
彼はスコットランドの争いを解決するため
フランスに渡ることを恋人に告げる。
「いつの時代のフランスか」が問題となるが、
エンリーコと敵対しているならば、
彼はメアリー・スチュアート側であり、
同時に彼が密使として赴くフランスも、
カトリックが幅をきかせていた
フォンテーヌブロー勅令以降の時代となる。
(両陣営の和解を模索するというならば、
ナント勅令の時代も不可能ではないけれど、
さすがにそれは飛躍し過ぎかも・・・)
これらの符丁から得られるデータを
どのように舞台に活かすかは、
演者や演出家の腕の見せ所でもあるが、
「知った上で演技の選択肢を選ぶこと」と
「知らずに演技してしまうこと」には
大きな隔たりがある。
・・・動機においても、
そして、結果においても。
※ ※ ※ ※ ※
「そんなの、どうだっていいじゃん」
・・・っていうアナタ、
ちょっと考えてみて欲しい。
「忠臣蔵」で吉良上野介は
田舎者の浅野内匠頭に対し、
京からの勅使饗応の際の礼装において
直垂と裃をわざと間違えさせるという
陰湿なイジメを行い、
刃傷沙汰を招く結果となったのだが、
直垂だろうが裃だろうが、
文化風習の異なるヨーロッパ人の目から見れば
どちらも等しく「極東の島国ニッポン」の
伝統衣装・民族衣装の類に過ぎない。
「直垂?裃?
そんなの、どうだっていいじゃん!」
・・・これって、
その国が長い年月をかけて育んできた
「歴史と文化」に対する
冒涜そのものじゃないかな?
相手の国に対しても、
そして、自分の母国に対しても。
(写真は1900年頃に描かれた「ルチア」六重唱の場面。Wikipediaより)
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